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 佐藤一志は項垂れていた。  目覚めた時、目の前にはまた黒い布があった。 「佐藤さん、起きてください。 あなたはもう、目覚めているはずです」 医者が佐藤の後ろから冷徹な言葉を吐いた。 「な、なんなんだ、なぜこんなことをするんだ」  逃げ出せたと思ったのも束の間。 どうなったのか、あっさり捕まった佐藤は、また拘束されていることにうんざりした。 目が慣れてくると、部屋はまだ明るく、黒い布越しから囚われている部屋の様子が伺える。 先ほどと同じ部屋なのか、一メートルほど前に見える壁は真っ黒だ。 その壁には大き目の液晶ディスプレイが固定してある。 先ほど、部屋から出た時に見た明るい白い壁の廊下とは、まるで違う場所のように感じる。 <壁一枚でここまで違うものなのか…> 「あなたがこの部屋から逃げ出してから、二時間経ちました。 あと、三時間です。 …さて、あなたは神を信じますか?」 医者は脈略なくそう逆に質問した。 <神、か。 拉致されたとわかった時から、頼むから、一生に一度のお願いだ、助けてくれ、と願ってはいるが…> 佐藤は見透かされた気持ちと自分の信仰心に恥ずかしさを覚えた。  「うっうっうっ、別にあなたの宗教心を試してる訳ではないんですがあ、ちょっと聞いてみたくなりましてねぇ。 別に信じていようがいまいが、どちらでも構いません。 日本人の宗教心の実際は、世界の中ではとても低い。 七五三やお正月は神教、クリスマスや結婚式はキリスト教、死んだ時だけ仏教なんてよくある話からもわかるでしょう。 しかし、世界に目を向ければ、本気で神を信じている人類の方が多くてですねぇ。 日本人の倫理感では宗教の戒律より法律を優先しますが、宗教の戒律の方が法律より上と考える人たちもいるんですよ。 宗教戦争など見ればわかるでしょう」 医者は少し落ち着いて、ゆっくりと続ける。 「…私はね、神はいると思っているんですよ。 ただし、祈れば願いを叶えてくれるなんて、そんな安っぽい神じゃあない。 我々人間を含めた生命を創ったという創造神って奴ですよ。 要は創造論を本気で信じていましてねぇ。 その逆の進化論というのも、もちろんご存知でしょう。 進化論は全くの間違いでもないが、ちょっと表現が正しくない。 進化というよりは、神が作った後の適応変化、言わば派生やバージョンアップというだけですよ。 生命が自然に生まれたというのは、かなり無理がある、というより無理です、確率はゼロパーセント。 進化論の連中は、例え可能性が極めて僅かでも何億年という歳月ではあり得るというのですがね、私に言わせれば、ゼロにいくらかけようがゼロなのです。 もっとも単純なウィルスの遺伝子さえ、偶然にできる可能性は無に等しい。 百歩譲って生まれたとしても、その種が当時の厳しい原始の地球環境で永続して世代交代し、さらに進化する可能性なんてありもしないことですよ、ええ。 考えてもみてくださいぃ。 遺伝子の複雑な構成と仕組み、これはあなたもよくご存知でしょう。 AGTCの塩基からなる四進法で記録された設計図が、美しい二重の螺旋を描いていますよねぇ。 そして、その遺伝子が成す神秘を知っていますか。 生物の雌雄の分岐と生殖方法を考えてみてください。 なぜオスとメスに分かれ、互いに惹かれ合い、また同種族を片方が生めるのか。 この不可能性は学校やメディアなど触れたことがあるでしょう。 先ほども言った通り、我々は遺伝子に異性を求めるよう意思をコントールされ、それを当たり前のように受け止めています。 むしろ、それに抗うようなマイノリティを毛嫌い、排除しようとする。 もしかしたら、その行動も遺伝子によって操作されているのかもしません。 他にも、クラゲの増殖方法、蝶のメタモルフォーゼ、蟻や蜂の集団行動、蚊の二酸化炭素の感知と吸血する口の形状と方法、不死身のクマムシ、食虫植物の捕食法、コウモリやイルカの超音波、蛇の赤外線… 不可能性の例を挙げれば切りがありません。 どれも、計算されつくした綿密な構造と連携性を体現しています。 これが進化というなら、どれだけの奇跡の積み重ねでしょうか。 奇跡と言うのは神などが示す思いがけない働きという意味があります。 神秘というのも、まさに神の秘密、つまり、神の意思がそこに働いたと考えた方がしっくりきます」  佐藤は医者の言うことを黙って聞いていた。 <メタモルフォーゼの発音、いやにいいな> 医者の例えは、いくつかは聞いたことがあったが、特に蝶の変態は知っていたので、この医者のいうことに少なからず興味を覚えた。 蝶は蛹となった後、考えられないようなことが起こる。 蛹の殻の中で幼虫は、いくつかの器官以外は一旦ドロドロの状態となり、体組織のスープのようなものを組み直して、触覚、足、羽などを再構成するというのだ。 まるで、出来上がる姿が先にあって、細胞を材料にその形を出力しようとする3Dプリンタだ。 <究極に不思議な現象だが、だからと言って、科学的に説明できないわけでもないだろうが…>  「それから、生き物の構成を考えてみましょう。 内臓は五臓六腑と言われるが、実際はこれ以上です。 最近になって、腸間膜も臓器だということがわかったほどです。 人間の感覚も、よく五感といわれていますが、とんでもないぃ。実際は二十感以上もあるのですよ。 五感の一つが触覚と言われますが、単純化され過ぎですねぇ、実に勿体ないまとめ方です。 本当の意味での触覚というのは、マイスナー小体という機械受容器と呼ばれる皮下組織の細胞が伝える情報に過ぎません。 機械受容器は他にもたくさんあります。 平衡感覚や圧迫感や重力感がそれで、それぞれ別に脳に伝えているのですよ。 簡単に伝えると言っていますが、肌に触れた刺激によって細胞の中と外とでイオン濃度の不均衡が生じ、その電位差を感知して神経に伝えているのです。 その電位の頻度によって、刺激の強弱までわかります。 さらに、熱い、冷たいなどの感覚は、皮下組織の上の表皮のそれぞれ異なるニューロンと呼ばれる神経細胞が働いて起こります。 これらのニューロンは、触ったものの感覚が脳に届く前に、その情報を形状まで計算しているのです。 指先から伝わった情報を処理して、脳が判断している訳ではないんですよ。 脳は無数のニューロンが判断した情報を受け取っているだけなのです。 これら全ての感覚、器官が、進化だけでは説明できないということは、調べれば調べるほど、そう確信できてくるのです。 たった一つのニューロンと言えども、超精密な造作物、英知の結晶そのものなのですから。 ダーウィンは、これらのことを果たして知っていたのでしょうかねぇ。 こんな現在のどんな精密機械でもできないようなことが、この指先の極小の世界で起こっていることを知っていたら、進化論など、論じなかったと思いますよぉ。 ダーウィンの進化とは、突然変異と淘汰による、とても緩慢で偶然の産物。 そんな偶然で、心臓や脳、耳、鼻、口ができて、手足が生えて、それらを操り、羽が生えて空を飛んだりするものですか。 神!神というより他はないでしょう!実にすばらしいぃ、んん」 「実際、できてるから俺たちがこうしているんじゃないか。 あんたもトーギンズを知らないはずは…」  トーギンズとは、イギリスの先鋭的な進化生物学者で、有名な無神論者でもあった。 「違う違う違う違うぅ、最も愚かな男の名を出すとは。 あなたは臓器の中心、心臓について考えたことがないのですか? 心臓だけでは動かないのは当たり前ですよねぇ? 様々な成分が含まれた血液、そして全身を巡る血管、少なくともこれら循環器系全てが同時にあって初めて成り立つ器官ですぅ。 血液の成分を作る場所は骨髄、胸腺、肝臓と別れていて、それに酸素を与え、二酸化炭素を奪う肺。 こういった体循環は恐ろしいほどの緻密なバランスの上に成り立っていると言えるでしょう。 これら別々の器官一つ一つが奇跡なのに、さらに同時にバランスよく進化して成り立つなんて有りえませんよ。 そう考えれば、眼球や脳のことなどもう言うに及びませんよねえ、これらはまさに最高傑作ですぅ。 眼の水晶体を作るクリスタリンというタンパク質の一種一つとっても、それができる確率は限りなくゼロに近い確率。 その眼球が光を感知して、それを脳に知らせる神経に伝え、脳は受け取った内容を外からの情報として認知して再構成する。 幾多の遺伝子が、そんな都合のいい変異を同時進行で起こすものですか。 そんな有りえないことが、偶然、連続して進化の過程で起こるなんて考える方がどうかしていますぅ。 それより、これらを設計した者がいる、と、こう考える方が実に自然なことです。 それが、我々が神と呼んでいるものだということですぅ」  医者は佐藤の側に用意した椅子に座り、抑揚を激しくして、さらに続ける。 「さて、説明が長くなりましたが、それではこの生命を創造した主、神とはなんだということになりますぅ。 先に少し言った通り、私の言う神とは宗教の言う神ではありません、う、んん。 宗教の神は、よく言われる心の拠り所、これに異論はないですが、ああ。 困った時、助けが欲しい時、絶対的な何かにお願いしたい、昔の人間はそれを神と呼んだのでしょう。 そんな時に助けてくれる神なんて、居やしませんがねぇ。 実際、あなたも少しは心のどこかで、助けてくれと神に願ったのではないですか? そんなことで神が現れてくれるんだったら私も苦労はしません。 祈る暇があるんだったら、ここから脱出できる方法を考えた方がまだまし…」 「本当に神が居たら、こんなことをしたら、神罰があるだろう? 本当に神を信じてるなら、こんなことせずに、あんたが俺を助けてくれよ」 佐藤は図星だったことで居た堪れなくなり、割って入った。 「うっうっうっ、これまで私がどれだけの罪を犯したか知らないでしょう。 神罰で神が現れてくれれば、言うことはないんですがねえ。 ああ、私のいう神は、そうですねえ、あなたにわかりやすいように創造論と言いましたが、ID論というのはご存知でしょうか。 私の考えはこれに近い。 この世界と生命の創造には、なんらかの意志が働いている。 単純に言うと、これがID論です。 この意思をわかりやすく、『神』と私は定義しています。 これ以外、他に呼びようがないですからね。 だから、私のいう神は、善人を助けたり、悪人を罰したりはしません。 ああ、これだけは言っておきたいのですが、別に私はなんでも神の仕業と言って、思考を停止した訳ではないのですよ。 むしろ、その逆です。 神がいるとしたら。 そう仮説を立てて、それを証明しようとしている」 <ああ言えばこう言う、って奴だな> 口を挟むのを諦めた佐藤を知ってか知らずか、医者は饒舌に続ける。 「では、その仮説は、どうやって証明すればいいのでしょう、うう。 どこにいて、どんな存在なのか。 私は初め、遺伝子についての解明を試みましたぁ。 しかし、作られた料理をいくら調べても、シェフがどんな顔かまでわからないのと同じです。 神が、どんな存在なのか全くわかりません。 シェフなら、厨房の奥に行けば顔が拝めるかもしれませんが、神はどこにいるかわからないし、呼び出そうとしていくら祈っても、現れてくれませんからねぇ。 今あなたの言ったような神罰を期待しても無駄。 となると…」 医者はそう言いながら、ワゴンに載せたノートパソコンを開いた。 「そこで、私は少し考え方を変えてみました。 これまで、神が人間の前に現れたことはあったのだろうかとぉ。 神が人の前に現れる、そんなこと、普通、有り得ませんよねぇ。 でも、考えてみれば、すぐにわかりましたぁ。 それは、確かにあったのです。 一体どんな時か。 これは単純なことなのに、中々気付かないことではと思うのですが。 佐藤さん、あなたにわかりますかぁ? どうしたら、神が現れるか。 それは…」 医者はゆっくり大きく息を吸い込んだ。
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