プロローグ

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プロローグ

 御園望は驚いていた。 目の前に広がる見たこともない光景に。  一九八二年七月二十四日土曜日の午前、茨城県笠間市の山中。 小学三年生の夏休み、例年通り父方の田舎に遊びに来て泊まった翌日。 中学二年の従兄、小比類巻と共に、昨日に引き続き、裏山に登ったところだ。 七月の下旬だというのに、まだ肌寒い。 「丸兄ちゃん、昨日おもしろいねって言ってたとこねえ、やっぱり崩れてるね」  朝起きると、田んぼに出かける前の祖母から、夜遅くに小さな地震があった、と聞かされた。 昨日、山道の途中に変わったものを見つけていた二人は、それがどうなったか確かめに来たのだ。 変わったもの、それは、立っているのが不思議なほど絶妙なバランスで、積木のように重なっていた、いくつかの巨石だった。 花崗岩でできた石は、節理という割れ目に雨が侵食して格子状に割れる。 それは時に人工的な雰囲気を醸し出し、神が作ったと言わしめるような信仰の対象になることもある。  ただ、二人が見つけていた巨石は地元の人間が知っている程度で、天狗石と呼ばれてはいたものの、取り立てた言われも曰くもなかった。 それが、今は崩れ去り、昨日とは違った興味を二人に惹かせている。 「もしねえ、昨日ね、ここにいる時に地震が起きてたら、私たちぺちゃんこだったね」 御園はその言葉の意味にそぐわない呑気な声で言った。 「ああ、さっき畦道で轢かれてたカエルみたいにな」 小比類巻は、体を大の字にして舌を出し、おどけて見せた。 「今までも地震あっただろうにねえ、なんで崩れちゃったのかなあ」 「知らねえ。たぶん、少しずつずれていってたんじゃない?」 「ふーん」 御園は上を向く。 「ねえ、あれ見てよ。しましまになってる」 見ると、巨石があった場所の一部が崩れ、山肌が露わになっていた。 「へえ、これ地層って奴かもな。俺も初めて見た」 「ちそう?」 「古い地面がどんどん積み重なってできるんだって」 「地面が積み重なるの?どうやって?」 「え?中一の時、理科で習ったけど…侵食して運搬…堆積?なんだっけ、もう忘れた。 ただ、あれだよ、この茨城県には日本でいっちばん古い地層があるんだってよ」 小比類巻は、初めは知った風に答えたようと試みたが、自分が知っていることへと話題をそらした。 御園は落ちた巨石や欠片を避けて進み、五メートルほどの幅がある地層の下に近付く。 「危ないぞ」 小比類巻はそう言いながらも、御園の後ろに続く。 「大丈夫だよ」 御園は地層の真下に着いた。 地層から水が浸み出し、小さな流れを作って山肌を伝い落ちている。 「触ってみたいな」 御園は手を伸ばしたが、二メートル以上も上にあって、まるで届かない。 「ここに上がれば届くだろ」 小比類巻が一番下に残った一メートルほどの高さの岩に手を掛けた。 「よっ、と」 小比類巻は軽々と上がったが、御園には登れない高さだ。 「私も上がりたーい」 「えー、どうしよっかなあ」 小比類巻はそう言いながらも、御園の伸ばした手を引っ張った。 「うわあ、おもしろーい」 御園は歓声を上げ、上下を繰り返し見る。 地層は幾重にも重なり、大きく湾曲していた。 「なんかねえ、これね、でっかいバウムクーヘンみたいだね」 「ばーむくーへん?なんだそれ」 「丸兄ちゃん、食べたことないの?おいしいのに」 「食べ物なのか」 小比類巻はふざけて、地層の部分に顔を近付け、舌を伸ばして舐める真似をした。 「うめー!」 「ねえ、汚いよ」 「あー、うめ、ばーむくーへん、うめえ」 御園が止めても、小比類巻はまだ続ける。 「えー、じゃあ私もー」 御園は地層を触って人差しに土を付け、やはり舐める真似をした。 「おいし…うわ、ぺっぺっ!」 舌を伸ばし過ぎたのか、指との距離を見誤り、唾を吐き出す。 「ほんとに舐めちゃった」 「うわー、エンガチョ!」 小比類巻は両手を胸の前で交差させた。 「ふーんだ、もう降りる」 御園は少し膨れて、石の端に腰かける。 両脚を下にやって、徐々にずり落ち、限界の所で飛び降りた。 が、勢い余ってつんのめる。 「痛ーい!」 膝を少し擦りむき、手の指には小枝が刺さった。 御園は蹲って、二つの傷口を交互に見つめる。 「だから危ないって言っただろ。 そんなの唾つけときゃ治るよ」 小比類巻は難なく飛び降りる。 「危ないって言ったのは上がる前じゃん。 もういい」 御園は小枝を抜いた指を咥えながら、山肌を伝い落ちる水で膝の傷口を洗った。 二人が山を下りた頃、地層から染み出ていた水は止まっていた。  たまたま、山に登った。 たまたま、天狗岩を見つけた。 たまたま、地震が起こった。 たまたま、その後の様子を見に来た。 たまたま、ケガをした。 たまたま、土を舐めた、傷口を水で洗った、或いはその両方か。 奇跡は、そんな些細な偶然の積み重ねから、生まれるのかもしれない。
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