はじまり

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はじまり

 それはなんでもない朝のことだった。  10歳の私はいつものように鏡の前でばあやに髪を梳いてもらっていた。  燃えるように艷やかな赤い髪、ちょっと釣り目だけど、大きくぱっちりとした二重の目にはキラキラ光るエメラルドグリーンの瞳が嵌っている。  我ながら華やかな美少女だわ。  満足げに鏡の自分に微笑みかける。  ふと、その顔に見覚えがあると思う。  自分の顔なんだから見覚えがあるに決まっている。  でも、見覚えがあると思ったのは、その勝ち誇ったような表情、しかも、もう少し大きくなった私の顔に浮かんでいた表情。  ん? どういうことかしら?  と、思った瞬間、いきなり色々な記憶が流れ込んできた。  私でない私がこことは違う場所で、小さな四角いものを覗き込んでうっとりしている場面。そこには、王子様がかわいらしいピンクの髪の女の子と微笑み合っている絵が映っている。  泣き伏している私の成長した姿も見えた。  なんなのこれは?  頭の中で勝手に再生されるストーリー。  ──これは王立学校で繰り広げられる恋愛ゲームです。  主人公のあなたは、聖女セシル・マクスウェルとして二年生に編入します。  あなたのお相手には、容姿端麗なジュリアン王子、宰相の息子リカルド・コリンズ、騎士団長の息子ダンガルド・ケイン、悪役令嬢の弟ジョエル・コンスタンツなど、様々なキャラがいます。  学校生活を送りながら、ミッションやエピソードをクリアしていき、彼らの好感度を上げてください。  この中の一人と恋人になると、聖女の真の力が目覚めて、天変地異に見舞われた国を救い、甘いトゥルーエンドとなります。  それでは、ドキドキハラハラの学校生活をお楽しみください。  そして、流れる壮麗なBGM。  そうか、思い出した。  私のハマってた乙女ゲーム『あなたの瞳に囚われて』だ。  その中の悪役令嬢ルビアナ・コンスタンツって、私じゃない!  え、うそ、私、あのゲームの世界に転生しているの?  ただの地味な事務員だったのに。  いやいや、これはもしかして夢かも。  って、どっちが夢?  悪役令嬢って最後は囚獄か、処刑か、娼館に送られるんじゃなかった?  イヤーーーッ!  どれもイヤよ!  あ、悪役令嬢って高慢で主人公をいじめ倒して、最後は害そうとしたから処罰されたのよね?  今から心を入れ替えたら大丈夫よね?  誰か大丈夫って言って〜。  そういえば、今は天使のようにかわいいジュリアン様は成長されたら、あの麗しい姿になるんだ!  最推しが2Dでなくて3Dで楽しめるなんて! それは楽しみかも。  いやいやいや、現実逃避している場合じゃなかった。  突然、頭を振ったりブツブツ言い出したりした私を不審に思って、ばあやが話しかけてきた。 「ルビアナ様、どうかされましたか?」  混乱の真っ最中だった私は「ちょっと黙ってて!」と強く言った。  すると、ばあやは一瞬、ぼんやりしたかと思ったらそれ以上は問わず口をつぐんだ。  え?   その不自然なばあやの動きに驚く。  ばあやは、私の様子がおかしいと絶対黙っていないはずで、納得いくまで追求する質なのだ。そのおかげで、数々のイタズラや隠し事を白状させられたものだった。  そのばあやが『黙ってて』という一言で黙るはずはない。 「ばあや?」  ばあやは黙ったまま私を見る。 「なんでしゃべらないの?」 「……………」  聞いてもばあやは答えない。 「ねぇってば!なにかしゃべってよ!」  すると、ばあやは何事もなかったように話し始めた。 「どうされたのですか?そんな泣きそうなお顔をして。せっかくのかわいいお顔が台無しですよ?」  どういうこと?  まさか、私の命令に従ってるの?  他の人にも試してみた結果、なぜか私は人を操ることができるようになっているのがわかった。  私が命令すると、相手は無条件に従ってしまうのだ。しかも、無意識なので、私が命令したことも覚えていないらしい。  なんてチートな能力。  転生したボーナスなのかしら?  悪いことし放題じゃない!  とはいえ、28歳の事務員だったこととゲームのこと以外はサッパリ思い出せない。だから、28歳の頭脳があるかというとそうでもなく10歳の感覚のままだった私は、大したことも思いつかず、有効利用することはなかった。  ひとつのこと以外。  この力のことを便宜的に催眠術と名づけた。  前世の言葉っぽい。  催眠術ならいつかは解けるのかもしれないけど、私の力は何年経っても解ける気配はなかった。  実際………。 「僕のルビーは最近憂鬱そうだね。なにかあった?」  パァッと光が射し込んだ気がした。  それほど煌煌しい存在が声をかけてきて、17歳になった私の思考を破った。  声の主を見ると、発光しているようなフワフワのプラチナブロンドに、春の陽射しのように柔らかな空色の瞳の美しい人がふんわりと微笑んだ。  ジュリアン様だ。  前世を思い出した頃、ちょうどジュリアン様と婚約したばかりだった。  公爵令嬢である私は、同じ歳のジュリアン様と条件がちょうどよく、彼の10歳の誕生日に婚約が発表された。  コンスタンツ家は中道派なので、政治的にも問題はなく、あっさり決まったらしい。  それまでも面識はあったけど、それからは婚約者として定期的にお会いすることになった。  その頃のジュリアン様は控えめに言って天使、リアルに言うと、誰もが見惚れないことがないほど光り輝くエンジェルだった。  悪役令嬢の記憶に不安になっていた幼い私は、会うたびにジュリアン様にむちゃなお願い……というか催眠術をかけていた。 「お願い……私のこと嫌いにならないで!」 「うん、ならないよ」 「ぎゅうして!」 「うん、喜んで」 「私のこと、好きになって!」 「うん、好きだよ」  そのたびに、ジュリアン様は一瞬驚いた表情の後、蕩けるように甘い天使の微笑みで、私の要求に従ってくれた。  そして、『好きになって』という術は7年経っても解けておらず、王立学校に入学してもこうしてジュリアン様は私を好きでいてくれている。  毎日食堂で一緒にランチを取って、休みはスケジュールが許す限り一緒にいて、溺愛されていると言われるくらいには。  ジュリアン様の背後には近衛騎士の護衛が付き、宰相の息子のリカルド様、騎士団長の息子のダンガルド様、弟のジョエルまでいた。つまり、主要な攻略対象が一同に会していた。  見目麗しい方々が勢揃いしているけど、この1年ほとんど同じメンバーでお昼を取っているので、さすがに皆見慣れて、キャーキャーいう人はいない。  この一角に近寄る人もいないけどね。  本来なら主人公のセシルを取り巻いて、私を断罪する人達なんだけど、私だって、うかうかと断罪ルートに進まないように努力した。  というか、催眠術の効果が怖くて、物腰がとても丁寧になった。  だって、ちょっとでも命令っぽくなったら従われちゃうんだもん。  ささやかな冗談でさえも。  恐怖よね。  だから、細心の注意を払って、行動してきた。  そのおかげで、高貴な生まれなのに驕ることなく常に穏やかで優しいと評価は上々で、攻略対象とも友好な関係を築けている。  でも、ジュリアン様への催眠術は取り消すことはできなかった。  だって、だって、好きなんだもん。  こんなに優しく甘く好きだと言ってくれている人を自分から手放すことなんてできない。  催眠術のおかげだと思うと、ときどき虚しさを感じるけどね。  そんなジュリアン様に挨拶をして、なんでもないと首を振る。  そして、まだ入学前の弟を見た。 「ジョエル、なぜあなたがここにいるの?」 「入学の手続きで確認事項があって、視察ついでに来たんだ。そしたら、ちょうどジュリアン様と会って、連れてきてもらったの。姉さんにも会いたかったし」 「そうだったの。って、毎日家で会ってるのに?」 「学校で会うのは違うでしょ?どんな姉さんだって見たいんだ」 「そう……」  ジョエルはなぜか重度のシスコンに成長していた。  幼いジョエルがかわいくて構い倒したのがいけなかったのかしら?  ジョエルを知っているジュリアン様と私はいつものかという反応だったけど、周りはドン引きだった。  もうすぐ新学期。  ジョエルが入学してくるのと一緒に聖女のセシルも2年生に編入してくる。  ゲームの始まりだ。  彼女を見たとき、この面子の反応はどうなんだろう。  特に、ジュリアン様の反応が怖い。  私なんか忘れて、セシルに夢中になっちゃうのかな?  ……あり得る。  セシルは、綺麗なピンク色の髪の毛に、クリクリのチョコレートブラウンの瞳のとてもかわいらしい女の子だ。  スチルでは。  心持ちも美しく誰もに愛される明るい性格をしているらしい。  設定では。  私だって、美人と言われるけど、彼女のように手を差し伸べたくなる可憐さはない。  新学期が憂鬱だなぁ。  ランチのサンドイッチを食べながら、そっとため息をついた。
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