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新しい家族の幸せな形
少し遅くなってしまった。
腕時計を見ながら、綾子はいつもよりも早歩きで家路につく。
寒くなり、気温がぐっと下がってから目に見えて入院患者が増えた。
綾子が勤務している病院はいわゆる大病院で、色々な診療科に大勢の看護師が働いている。だが、例に漏れず看護師は恒常的に不足しており、綾子の働いているフロアでも妊娠を機に1名が辞めた。看護師は体力仕事である。産休を取りたいと言っていた同僚も、結局はそこまで待てずに辞めていった。代わりの看護師はまだ補充されない。年度いっぱいは補充されないかもしれないと聞いている。残されたメンバーにそのしわ寄せが来るため、また辞表を準備する看護師が出るかもしれない。
すっかり日の落ちた街には、キラキラとイルミネーションが輝いていた。
もうすぐクリスマスだ。綺麗に装われた街路樹の下を歩く恋人たちは、もはや景色の一部のように見える。外の色めき立つような雰囲気と、病院内での殺伐とした雰囲気とのギャップには、いつも目眩のようなものを感じてしまう。
綾子がまだ新人だった頃に、あまりに辛くて辞表を書いたことがある。慣れない仕事に人の命を預かるという重い責任。職場での人間関係に、患者さんから投げられる心無い言葉。休みも十分にとれず、体力的にも精神的にもヘトヘトになるまで働く日々。毎日辞めたいと思っていた。だが、結局は辞表を提出することもなく、明日までは、来週までは、来月までは、とずるずると働いて、気づけばもう15年。いつの間にか部下が増え、未だに慣れないと思いながらもチームをまとめている。
だが、辞表は捨てていない。
カバンの中に入れたまま、いつだって出せるようにしている。今日は出さなかったが、明日はわからない、と思っている。
——思いながらも、きっと提出できないだろうと、思ってもいる。自分が抜けた後に多くの同僚が困るだろうとか。顔なじみの患者さんが悲しむだろうとか。昔はそんなことを考えては、辞めることを引き延ばしてきた。だが今となっては、ずっと看護師として働いてきた自分に、他の仕事ができる自信がない、というのが本音だろう。看護師の仕事であれば引く手数多かもしれないが、別に今の職場に不満があるわけではなく、辞めたいのは看護師という仕事だ。だが、もうすぐ40歳。それ以外の就職先が見つかるとも思えない。働かずに生きていけるほどの貯金もないし、そんなつもりもない。
だって私には家族がいる。
白い息を吐きながら、玄関の鍵を回す。
ドアを開けるとパッと明かりがつき、暖房の効いた部屋の暖かな空気に包まれる。
「ただいま」
いつものように声をかけ、手早く脱いだコートを玄関横のポールにかけてから、洗面台に向かう。病院勤務のため、感染症の予防にはいつも気を使う。普段は最初にお風呂に入るのだが、今日は遅くなってしまったため手洗いとうがい、洗顔だけにする。手早く髪をまとめあげると、髪留めで留めた。
部屋に入ると、綾子はタブレットを立ち上げた。慣れた手つきでアプリを操作すると、全画面表示になり、コールが鳴った。相手が出るまで、数秒。パッと映ったのは、ドアップの息子の顔だった。
「お母さん!」
カメラを覗き込むようにしているのは、息子の奏太だ。もうすぐ5歳になる奏太は、まだまだ甘えん坊で、まだまだお母さんが大好きだ。今もカメラに映る、一日ぶりのお母さんの顔にはしゃいでいるのだろう。まあるい顔でお母さんお母さん、と何度も呼んでいる。
「ちょっと奏太。さっき練習したでしょ、ちゃんと言ってよ」
息子の後ろから女の子の声がする。しっかりした口調の彼女は、長女の綾香。まだ7歳だが、奏太とは比べものにならないほど大人びている。綾香は奏太の後ろからひょこんと顔を出した。前髪がおでこの上の方で切りそろえられ、くっきりとした大きな瞳が目立つ。母親が言うのもなんだが、将来は美人になるだろう。先日はお父さんが前髪を切りすぎたと言って泣いていたが、翌日には友達に可愛いと言われたとにっこり笑顔を見せていた。
「何を練習したの? 奏太」
「えっとねー」
もじもじとしながら、奏太は小さい声で何かを言った。
「何?」
「お誕生日おめでとう、お母さん」
言われて私は目を丸くする。そんな顔を見て、綾香が笑った。
「お母さん、もしかして忘れてたの? 自分の誕生日」
「そっか、もう十日か。忘れてた」
「そんなことだろうと思ったよ」
夫の声が割り込んできた。画面には息子と娘だけが映っているが、夫も近くにいたのだろう。彼は顔は見せないまま、言葉を重ねてきた。
「おかえりなさい、綾香。今日も忙しかったみたいだね」
「ただいま。今、帰ってきたところだってバレちゃってた?」
「1分の遅刻だったよ」
「そう? 気づかなかった。腹ペコたちを1分も待たせちゃってごめんね」
笑いながら綾香はいう。夫も子供たちも笑った。
家族と一緒に暮らすことはできないが、せめて食事だけでも一緒に食べようと決めている。日勤の時は19時半に夕食を、夜勤の時は7時半に朝食を。と言っても、今日みたいな日は綾子の方に夕飯を準備する時間もない。もっぱら家にあるワインを飲みながら、子供達が楽しそうに食事をするのを眺めるのが、一番の楽しみなのだ。それだけでお腹もいっぱいになる気がする。
ピンポーン
インターフォンが鳴る。綾子が首を傾げていると、夫が言った。
「何か届いたんじゃないか? 待ってるよ」
出てみると、確かに宅配便だった。一抱えもある大きなダンボールを手渡され、綾子はそのまま画面の前に戻る。息子は興味津々といった顔でこちらを覗き込んできていた。
「お母さん、何が届いたの?」
「何かしら」
箱を開けて、綾子は思わず息を飲む。
そこにはオレンジ色の花束。小さなバースデーカードがつけられており、開けるとオルゴールの音色が流れ出した。取り出してみると、下にも箱が入っている。そしてダンボールの底には、絵の描かれた画用紙が。
——パンッ
画面から大きな音がした。
タブレットに視線を戻すと、飾り付けされた部屋が映っていた。そして夫と子供達がクラッカーを持っている。飛び散ったキラキラとした紙片が舞う。
「ハッピーバースデー、綾子」
「お誕生日おめでとう、お母さん!」
みんなの声が重なる。ありがとう、と言った声は、少し震えてしまった。綾子は思わず涙がにじみ、慌ててハンカチでそれを拭った。泣いている母親を笑顔にさせるかのように、綾香は明るく言ってくる。
「お母さん、ケーキ忘れてたでしょう。誕生日にケーキがないなんてありえないよー」
言われて、ダンボールに入っていた小さな箱を取り出す。そこには一人用の小さなイチゴのケーキが入っていた。ろうそくも一本入っている。
「なので、綾香が選んでみました。どう? 美味しそうでしょう」
「お母さん、イチゴ大好きなのよ。よく知ってるわね」
「当たり前でしょ! 一緒に食べようよ。私たちも、ほら、ジャーン」
画面がテーブルの上に置かれた大きなケーキを映し出す。そこにはロウソクがこれでもかというほど刺さっている。
「もしかして、私の年の数だけローソクを立ててあるの?」
「当たり前でしょー。誕生日だもん」
勝ち誇ったように言った綾香に、涙をぬぐいながら『ありがとう』と言う。年をとったせいか、どうも涙もろくなってしまった気がする。
「吹き消すのが大変そうね」
「僕がふーってするから大丈夫! ねえねえ、僕のプレゼントも見た?」
言われて、箱の底にあった画用紙を取り出す。大きく描かれた顔は、きっと綾子の顔なのだろう。ニコちゃんマークのような、にっこりとした顔が書かれている。おめでとう、という字はきっとお姉ちゃんの字だ。とても上手ねと言うと、奏太は嬉しそうに笑った。
「ねえねえ、俺のプレゼントは?」
息子を真似した夫の言葉に綾子は笑う。オレンジ色の花束を持って『ありがとう』と言う。オレンジというのは綾香の一番好きな色である。見ているだけで元気になる色。あとで花瓶に挿してテーブルに置いておこう、と思う。枯れるまでずっと、夫の代わりに私を元気づけてくれるだろう。
「いつも、子供たちをありがとう」
「綾子こそ、仕事頑張ってくれてありがとう。いつもお疲れ様」
愛してるよ、と小さな声で言った夫に、娘が何かを言って茶化していた。夫は誤魔化すように、ご飯にしよう、と言う。彼らがご飯とケーキを食べるのを見ながら、綾子は小さなケーキを大事に食べた。クリスマスプレゼントはあれが欲しいなあなんて言う言葉を微笑ましく聞きながら、こっそりと夫の口座にプレゼント代を振り込む。子供達が寝た後にまた、作戦会議をしようと思う。
幸せな誕生日だ。みんなに会えないのが寂しくないといえば嘘になる。夫に会いたい。娘に会いたい。息子に会いたい。会って、ぎゅっと抱きしめたい。だが、これだけでも私は幸せだった。
私はこの生活を守るためなら、仕事の辛さなんてなんでもない。
私はこの生活を守るためなら、なんだってする。
なんだってできるのだ。
***
政府は少子化の一因になっている可能性があるとして、孤独担当庁の主管で企業向けに提供している『オンライン家族(※)』サービスの見直しを検討している。専門家は、サービス利用者の増加と、結婚率、離婚率、出生率の低下には明らかな相関があると述べている。
同サービスについては、数年前からこの技術を悪用した詐欺事件や、仮想家族から高額なプレゼントやお年玉を請求され生活が立ち行かなくなる『オンライン家族』破産などが社会問題となっており、サービスの停止を求める声も多い。
しかしサービスの利用者には、継続を求める声が根強く、集まった署名はすでに30万にも及ぶ。また、昨年にはサービスの停止を訴えた国会議員が利用者に刃物で襲撃される事件も起きており、今回のサービスの見直しについても国会議事堂の爆破予告があるなど、波紋が広がっている。
※オンライン家族
AI技術を使用した、仮想空間で機械と会話ができるサービス基盤。また、オンライン家族サービスを使用して開発、配信されているアプリ・サービスの総称をいう。
取り込んだ画像を元に合成した仮想の人間を仮想空間に再現する技術と、会話を元に自動で学習し人格を形成していく技術がコアとなっている。サービスは企業に向けた基盤と技術の提供となっており、各社はその技術を利用して国民に向けた様々なアプリやサービスを打ち出している。オンライン家族サービスを使用したアプリ・サービスは今や50を超えており、利用者は国民の3割強にあたる。
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