オンライン・セックス

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 ナザレのイエスが誕生してから二千と数年が経ったあるとき、Xというウイルスが偶発的に地球上に誕生した。  茫漠と大気をさまよう極微小なその構造体は、他生物の細胞組織を利用して自己を複製するシステムを備えていた。単一であり唯一であった彼は、他の生命体のからだに侵入し、増殖を繰り返した。増殖したXは宿主の飛沫に乗って移動し、また異なる生命体を宿主とする。またたく間に存在領域を拡大したXが、大いなる繁栄を遂げていた人類と出会うのに、さほどの時間はかからなかった。  Xは人体をも宿主として、システム通りに増殖を始めた。Xの増殖は単に自己保全の目的のもとに行われるが、その活動は宿主に影響を与え得る。人体の場合、主に肺組織に異常を来し、悪化すれば死に至らしめることすらあった。  ヒトからヒトへ感染し、広がっていくXの驚異を、人類は感染症に認定し、X感染症と呼んだ。  X感染症はおそるべき速度で人類を蝕んだ。  Xは感染する力が強く、重症化した際のリスクが高く、かつ新種のウイルスということでワクチンも特効薬も存在しない。そのため、感染者の処置が難しく、対応は後手に回らざるを得なかった。  医療現場は火の車だった。感染の抑制を指揮する政治の場も、また。そして、マスメディアがその火種を煽った。  人々はXをやみくもに恐れた。さまざまな風説が流れた。  いわく、Xに感染したものは味覚を一時的に失う。  いわく、Xに感染したものは嗅覚を半永久的に失う。  いわく、Xに感染したものは非常に高い確率で死ぬ。  いわく、Xに感染したものは治癒後も死を想うほどの後遺症に苛まれる。  いわく、Xは某国が開発した生物兵器である。  いわく、Xは恐れるほどのものではない。  いわく……、  なにが本当で、なにが嘘であるのか。その真実は民衆にとって大事ではなかったのかもしれない。民衆はただ、X感染症が凶悪なものらしいという、その実体に付き纏う影の威容に怯えていた。彼ら、疑問は単純明快に――恐れるべきか、そうでないか? メディアは前者に風を送り、世は流れた。  X感染症は人類の暮らしを大きく変容させた。X感染症に罹ることを避けるため、まずもって人々は外出をしなくなった。街から人が消えた。さいわいにして、繁栄を謳歌していた人類は、住まいに籠もり続けた状態においても良く生きるすべをすでに開発していた。多くの企業がインターネットや、ソーシャル・ネットワークを活用することを求められた。リモート・ワークという言葉が生まれ、デリバリー・サービスやオンライン技術は需要を受けてさらなる発展を遂げた。  そういったものに頼れない職種にとっては、冬の時代だったと言わざるを得まい。特に医療や介護の現場は途方もない労苦を強いられた。しかし、それらの界隈においても、じきに素晴らしいテクノロジーがもたらされた。高度で精密な、かつパワフルな動作を可能とするロボットが制作された。医師は高精細カメラ越しにリモコンを操作することでどこでも手術ができるようになり、適切なプログラムを組まれた介護ロボットは施設から従業員の姿を排斥してみせた。  戦争という愚昧がときに技術を飛躍させる火口となるように、Xもまた、人類の基盤を上方へ押し上げる一助となった。その是非はともあれ、その事実はおそらく疑うべくもなかった。  人々の生活は自宅の中だけですべて完結してしまう。  ボタンひとつで食事が届き、風呂が沸き、買い物ができ、粗大ゴミの処理までができるようになった。生活の基本が満たされると、室内娯楽も拡充された。全世界の書籍のほとんどが電子化され、動画配信サービスは完璧なものとなり、バーチャル・リアリティを用いた娯楽も広汎に行き渡った。誰しもが家にいながら世界一周ツアーを楽しめるとしたら、いったい誰が好き好んでウイルスの氾濫する外界へ出たがるというのか?  ##  ジョージはつい先日に二十二歳になる誕生日を迎えた。  その日、彼は紛れもなくとても幸福な時間を過ごした。妻のカレンに起こしてもらって目を覚まし、少しお高いデリバリーの朝食を済ませたあとは、デートを楽しんだ。彼らはまず、水の都ヴェネツィアでゴンドラに乗って街並みを見て回り、続いてロス・アンジェルスのシアターで本場の空気感とアクション・ムービーに熱中し、夜には香港で豪壮な夜景を愛でた。夕食には、ぜいたくな本格中華を頼んだ。  賢明な読者諸氏にはあえて言うまでもないことだろうが、無論、観光はバーチャル・リアリティ・サービスを利用したものである。だが、ジョージの感じる幸福は真に彼の心に宿ったもので間違いない。X感染症が世界を危機に陥れてからというもの、仮想現実の精度は急速に向上し、デリバリーの食事も極限まで多様化した。彼とカレンは、それぞれの自宅にいた。そんな状態でありながら、彼らは十年前ならばどんな資産家や王族にも叶えられない理想のデートを経験したのだ。  ところで、一般的観点に基づくと、なぜ夫婦であるジョージとカレンが同じ家にいないのかについて話さねばなるまい。特段、難しい話ではない。彼らはXの災禍が烈しいものであった当時にインターネット上で出会い、結婚するに至った。感染リスクを避けるため、住まいを同じくすることは諦めたと、それだけのことだ。同居などせずとも夫婦生活は円満だった。性能の上がったビデオ通話があれば、遠く離れていようとも隣にいるのと一緒なのだから。直接に会ったことが一度もなくとも、それは夫婦の新しいかたちだ。  さて、素晴らしい一日の余韻もいまだ醒めやらぬジョージ。まったくもって羨ましいことに、彼はベンチャー企業を興した若き社長でもあった。宅配用ドローンの航行速度を向上させるモジュールを開発したことで、その社名は世間にも取り沙汰された。技術に改良を重ねることができれば、新たな様式を取り入れた世界のインフラストラクチャーすべてに応用が効くかもしれない。画期的な発明と言っても良かった。  輝かしい栄光の人生を歩んでいるジョージだったが、一方で悩みもあった。深刻な悩みである、といっても、危ういたぐいではない。幸せな悩みだ。  ジョージはすでに二十二歳になった。ジョージ・モジュールのおかげで財産を築くことができたし、今後も会社の経営は安泰だろう。加えて愛する妻がいるとなれば、子を成すことを視野に入れるのも不思議はあるまい。  つまり、ジョージはいつ、どのようにして、カレンをセックスに誘うか? ――ということで悩んでいるのである。  別に、断られるかもしれないという不安に苛まれているわけではない。ジョージとカレンのあいだに育まれた親愛と恋慕を、彼は微塵も疑ってはいなかったし、妻もまた同じ心境にいることを、彼はほとんど確信していた。  成功の自信があったとしても、どうしようもなく緊張してしまう。ジョージは初体験だった。初体験とは、往々にしてそういうものだ。  ジョージはまず、綿密にデートプランを練ることにした。彼の誕生日にカレンが考えてくれたデートは、本当に楽しいものだった。それに引けを取るようなデートではいけない。少なくとも同等に素晴らしいものを、可能なら上回るものを用意しなければいけない。食事だって大切だ。彼はサーバ上のすべてをさらう勢いでロマンティックな名所を探し上げ、評判のいい食事を出すデリバリーを調べた。  ジョージは考え得る最高のデートコースと、最上の食事を一週間後に予約した。  一通りの手続きを手早く済ませたあと、ジョージは自宅の窓から外を眺めた。X感染症という人類の敵が現れてから、彼はほとんど外に出ていない。ここ数年に至っては一度も。  若い親子と見られる三人組がひと気の欠けた通りを歩いていた。父親と母親に挟まれるかたちで手を繋ぐ子どもは、機嫌の良さそうににこにこと笑う。見下ろしながら、ジョージは「ふん」と鼻を鳴らした。 「感染する危険もあるだろうに、外出なんてばかのすることだ」  それはジョージのみならず、大多数の人間の見解だった。  実のところ、X感染症の脅威は去ったというのが学者の見立てだった。当初は猛威を奮ったXだったが、人類の卓越した巣籠り能力によって事態は収束に向かった。感染爆発はもはや起こり得ない。いまも年間で見れば一定の罹患者が出るとはいえ、その程度に留まる。  にもかかわらずジョージや多くの人々がいまだ外出を忌避する理由は、大きくふたつある。技術の発展により外に出るという行動の必要が完全に失われてしまったことがまずひとつ。そして、Xに作用するワクチンや特効薬の開発が断念されたというのがふたつめだ。人類の大多数が高度な巣籠りを持続したことによって需要が薄れてしまった以上、医療機関の判断は妥当だった。  Xの影はいまだ忘れられず、どうやら世界はこのかたちに安定しそうである。  つつがなく一週間が過ぎた。ジョージにとって決意の日である。  彼らはノーンハーンの紅い睡蓮の海を背景にブランチを食べ、サンクトペテルブルクのマリインスキー歌劇場で『スペードの女王』を観劇し、エーゲ海に浮かぶサントリーニ島で愛を囁いた。  夕暮れどき、ジョージはイアの古城の上で意を決し、カレンを誘った。妻は満面の笑みを持って受け入れる。  バーチャル・リアリティはシーンを切り替え、こぢんまりとした、それでいて品のいい寝室を出現させた。ふたりはお互いに服を脱ぎ、顔をほのかに赤らめる。ジョージは緊張していたが、あらわになったカレンのつややかな肢体を見るや興奮に支配された。丸みのある臀部とほどよく膨らんだ乳房、腰はきれいにくびれ、カレンがからだを動かすたび、長い髪が扇情的になびく。否応なく、秘所にも目を奪われた。美しい大陰唇と可愛らしい陰核に見とれ、振戦する膣口が濡れているのに気づくと、ジョージの本能は怒張した。カレンもまた、ジョージのたくましい肉体にうっとりしていた。  ジョージとカレンは愛し合い、やがて達した。生涯忘れることのないだろう多幸感に包まれた夜だった。彼らは最後にもう一度愛を囁き合うと、名残惜しそうにビデオ通話と仮想現実の電源をオフにした。  ジョージはむっくりとからだを起こし、手に付着したみずからの精液を真空容器に採取する。それからふたをかっちりと閉め、ベランダに待機させておいたドローン便に容器を任せた。ドローンは自動で浮き上がり、ジョージ・モジュールの働きによって高速でカレンの元へ飛んでいく。  ドローンの尾灯を見送ったあと、ジョージは手を洗い、政府から頒布されたオンライン・セックス・マニュアルの冊子を開いた。手順通りに行った場合、粘膜接触を伴うセックスと同等の確率で子を授かることができるそうだ。
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