白い少女

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2  春。虫たちが地中から溢れ蠢き出し、桜の花が咲き始める頃になって、ようやく木ノ崎からの連絡が来た。あれ以来、大学でも顔を合わせず、電話もいつも繋がらない彼が、この日ようやく向こうから電話をかけてきたのだ。 出ると、彼は切羽詰まった声で「たすけてくれ」と言った。聞くとまだ、あの邸宅にいるらしい。彼は震える声で教え子の少女が大変なことになったとだけ伝えた。 あの日会って以来、彼が邸宅からすでに家に戻ってるものと思っていた自分は、まだそこにいると知り驚いた。彼を助けるため急いで邸宅に向かった。 山の中の邸宅を訪問すると、玄関にこの前と同じく母親が着物姿で現れた。 「あら、こんにちは。お久しぶりですね」 「木ノ崎は、まだここにおじゃましているんですか?」 「そのことで、ちょっとお話が……」 「彼から電話があって来たんです、すぐに彼と会わせてください」 「木ノ崎さんの件については、お互いの身の安全のため、すこしお話をさせてもらってから、ご案内させていただきとう存じます。」 能面のような顔で母親は言った。 身の安全だって?あの電話は、親からかけさせられたものなのか。 「そうですか・・」 「いま主人を呼んでまいります。ちょっとお待ちになってください。」 そう言われしばらく待っていると、やがて自分は一階の応接室に通された。 応接室正面のソファーには初老の男性が座っていた。学者然として品のよさそうな男だった。背後の書棚には書物がずらりと並んでいる。 自分は出されたお茶を一口だけのんだ。前回にも増してやけに苦いお茶だ。 「どうもはじめまして。わたしは章子の父親です。」 男性から渡された名刺には、「生物学博士 守野卓治」と記されていた。 名刺には、よくCMで目にする大手製薬会社のロゴが印刷されている。役職の肩書が名前の横にいくつも印字されている。 最初に話を始めたのは、章子の父親の方だった。 「時間があまりないので、要点だけを手短にお話します」 応接室で自分に向かい合った父親は静かに話し始めた。 「わたしは、長らく東京のある製薬会社に勤めておりました。社員として最後に赴任したのは隣県にあった登戸の研究所でした。」 話をする父親の横には、不安そうな顔で母親が寄り添っている。 「主にわたしは、昆虫の研究をしていました。さまざまな種類の虫について、新薬開発に繋がる成果を求め日々研究をしてました。」 「主人は仕事熱心でしたのよ、盆と正月以外ほとんど家にも帰らなかったんです。」 母親が自慢げに言う。 「その当時、結婚してもう何年にもなるのに、私たちには子供がいませんでした。先天的に、妻は子を授かりにくい体質だったんです。私には妻にかける言葉もありませんでした。そして悩んだ末、一つの結論が産まれました。自分の研究でそれを解決できないものか、秘かに研究することを思いついたのです。」 マッドサイエンティスト……と言いかけて自分は言葉をのんだ。 「ところで女王蟻について知ってますか。」 そう言うと父親は書架の引き出しからファイルを取り出し、自分に渡した。 「これはコピーですが、あなたに差し上げます。蟻の生態について綴った報告書です。」 自分は渡された資料をパラパラめくった。写真と共に蟻の生態についての解説が記されている。父親は話を再開した。 「女王蟻は虫としては長命で、普通に10年以上生きると言われてます、その生涯は巣穴の中で、延々と産卵を繰り返すものです。その産卵システムをご存知ですか?」 自分はなんだか嫌な予感がした。蟻の生体などに興味を持ったことはなかった。 「いえ。存じません。」 「女王蟻は営巣前に一度だけ交尾します。そして、その時の精子を体内の袋に保存して、その後、延々と受精と産卵を繰り返すことができるのです。わたしは、この黒蟻の驚異的な繁盛方法に注目しました。そして研究に研究を重ね、とうとう女王蟻特有の産卵能力を誘発する成分を発見したのです。そしてわたしは何年もかけ、女王蟻からこの成分を抽出し続けました。そうしてほんの少しだけ、製薬のもととなる成分が取れました。」 自分は耳を疑った。SFかなにかの話なのだろうか。 「妻はその成分を服用しました。しかし大して効果はありませんでした。」 結局、失敗したのか。自分はその結末にホッとした。 「次にわたしは……」 しかし、父親はさらに話を続けた。 「白蟻に注目しました。白蟻の女王も同じような生態ですが、蟻の女王とは異なる点があります。精子を貯蔵する器官、つまり胎内の精子嚢に長く精子を保存できないので、何度も交尾する必要があるのです。こっちの方が、より人間に近い。」 こんな話が続くことに、自分は耐えられそうになかった。シロアリが人間に近いなど、狂った話でしかない。 そしてその時、隣にいた母親が話に口をはさむ。 「夫は躊躇してたんです。わたしを実験台にしたくないから、会社の治験セクションに正式に検証させたいと。でも、それでは何年も時間がかかってしまいます。もう若くはなかったわたしに、出産までの時間は限られてましたから。わたしから、それを飲むことを提案したんです。」 なぜか母親は父親を庇うような口調であった。結果として妊娠ができたようだから良かったではないか、薬事法に抵触することを恐れてるのだろうか。 父親は母親の話にしばらく黙っていたが、また話だした。 「そして・・・この白蟻についての研究は、前回の研究が基にあったためスムーズに進みました。そして存外早くに、白蟻からの成分抽出に成功しました。この抽出された成分に今度は、会社で開発されたばかりの効果を高める成分を混ぜ合わせて薬を完成させました。」 「成功したんですか。」 「結果的には・・・。翌年には章子が生まれましたからね。」 何故か物が歯に挟まったような言い方で、言葉に抑揚がなかった。 「しかし、わたしが危惧したのは、2回目のシロアリから作った新薬のほうでした。混ぜ合わせた成分の方が、その後使用停止になりお蔵入りしたからです。」 「なぜお蔵入りに?」 父親は唇を噛みしめると言った。 「効能が・・強すぎたからです。」 「強すぎた・・」 「成分が予想よりはるかに効きすぎてしまう、と言うべきでしょうか。それを知ったのは妻の妊娠後でしたから、もうどうすることもできなかったのです。その後わたしたちは何十万という女王アリを犠牲にした報いを受けねばなりませんでした。」 隣に寄り添うようにしていた母親が、感極まって言った。 「この人は悪くないんです!みんな私のためにやったことなんです。」 父親は母親を制するように手を前にだすと、話をつづけた。 「妻には・・母体には何の影響もありませんでした。赤ん坊も外見上は特に変わりがなく、すこし色が白いくらいでした。」 「生まれた時から色白だったんですね。」 「あとは、すこし胴が長い子でした。」 「じゃあ実験は成功したんですね、問題なさそうですが。」 「章子は赤ん坊の時から、桃のような甘い香りがする女の子でした。でも不思議なことに妻にはその香がわからないというんです・・・。肌も白く透き通って、とてもきれいな女の子でした。」 「美人の素質を持って生まれたんですね。」 自分は褒めたが、父親は無関心なまま何も取り合わなかった。 「ちいさい頃は、少し大人びていましたがごく普通の女の子でした。ただ、可愛くて目を引くのか、外に出すと、必ず見ず知らずの男に話しかけられました。それで、幼稚園や学校に行かせる以外はあまり外に出さないようにしてました、誘拐とかされないように。」 自分はその話を黙って聞いていた。 「そして成長が進むと、章子の体が少しおかしいことに気付きました。彼女は奇形だったのです。」 「奇形?」 自分は思わず繰り返して聞いた。 「はい。生まれた時から胴が少し長い子でしたが、それがどんどん伸びていったのです。いまでは自分で立ち上がり、歩くことすら出来ません。」 自分は前に彼女を見た時のことを思い出した。寝室に横たわる彼女の布団は、隣の部屋まで不自然に続いていた。あの布団の下に、彼女の長い下半身がずっと続いていたというのか。 「それは、俄には信じることができませんが。」 父親はフッと自嘲気味に嗤った。 「そうでしょう、無理もありませんね。ただ少し正確に言うと、胴ではありません、成長してるのは彼女の腰の部分。解剖学的に言えば『精子嚢』の機能を司る器官です。」 自分は驚いて言う。 「精子嚢。それじゃ・・・さっきのシロアリの話じゃないですか。・・・章子さんの体は、一体どうなってしまってるんですか・・・」 父親はそれには答えず、無表情のまま言った。 「白蟻に限らず、女王アリは極度に発達した産卵機構を内包するため、その体の大きさは、通常の働き蟻と比べると巨大です。人間で例えるなら、その大きさはタンクローリに匹敵するくらいです。」 また、父親は女王蟻の話を始めた。氷のように感情の無い顔で。 「女王蟻の姿を見たことがありますか?巨大な体に、申し訳程度に頭部と手足がついているだけです。それはとても滑稽で哀れな姿ですよ・・・・何百万もの産卵をするためだけに生まれた身体・・・まさにそれは産卵機械といってもいい、繁殖に特化しただけのひとつの工場です。」 自分はその話を黙って聞いていた。 「・・・・その点、産まれてきた章子は恵まれてました。胴は長いけれど見た目は綺麗で美しい。頭もちゃんとしていて理知的で優しい子です。普通の女の子となんら変わりませんよ。」 父親は黙って茶を飲むと、自分にも勧めてきた。自分は注いでもらったカップの茶を一気に空けた。 「ところであなたは、前に一度ここにやって来て、章子とお会いになったことがありましたね。」 目元の眼鏡をズリ上げながら、父親は聞いてきた。 「ええ。昨秋の暮、木ノ崎に会いに来た時にお会いしました。」 自分は答えた。 「その時、何か違和感はありませんでしたか・・・・」 「いえ特段。章子さんの体は布団の下に隠れていましたから・・・」 「いえ違います。章子の見た目の事ではないです。あの子の近くにいて、何か体に異変はありませんでしたか。」 自分はあの日、章子と会って部屋で感じた身体の異変について思い出した。彼女の近くにいると、身体に少し触れただけで全身の血流が上り極度の興奮状態になってしまった。あの時は、幼い少女相手に性衝動をおぼえた自分を恥じたが、あんな興奮状態に陥ったことはあれが初めてだった。 「なんていうか、体も心も不思議な状態になってしまいました。」 「男性として、極度の性的衝動を憶え興奮状態になりませんでしたか。」 臆面なく父親ははっきり言い切った。自分は頷くしかなかった。 「お恥ずかしい話、自分はあの時娘さんによこしまな感情を・・」 「このお茶は、それを防止するために飲んでもらってました。」 いつもの黄色いお茶を指して、父親は言った。 「これが?」 「性衝動と興奮を抑えるインドのお茶です。通常の人間なら数日間は性衝動が起きないはずです。けれど相手が章子では効果はそれほどではなかったようですね。」 「ここに居ついてしまった木ノ崎についても、原因は章子さんにあるというのですか?」 「正確には章子ではなくて、章子の放つフェロモンにです。考えてみてください、不思議じゃありませんか、なんで彼はここから帰らないのです。前回あなたのとった行動だって矛盾してます。いくら木ノ崎さんのことが心配だからって、いきなりこの家を訪ねてきますか。なんで見ず知らずのあなたが、わざわざ遠くからバスに乗ってこんな山奥の家まで来るのです。この家に一度も来たことが無いあなたが、まるで何かに呼ばれてるようではありませんか。これは雌のフェロモンにふらふらとおびき出される雄の昆虫行動そのものですよ。」 父親の話に、自分は言葉に詰まる。 確かにそう言われればそうだ。あの時試験を受けていない木ノ崎の心配をしたが、それは自分がわざわざここまで来た理由にはならない。彼がここにいる確証もないのに関わらず、なんで自分はわざわざここを訪ねて来たのだろうか。まるでこの山の中の何かに引き寄せられるがごとく・・・。 「それじゃ・・ここは、女王アリの巣穴の中ということですか。」 「今回だって、木ノ崎さんはどうしてあなたに電話をしてきたのでしょうか。あなたに電話するよう仕向けたのは、おそらく―」 父親は黙ってしまった。 「章子さんだと言いたいんですか。」 「正しくは章子のフェロモンです。もう何年も前から当家を訪れた者たち・・宅配の配達人、ガスの点検員、果ては役所の国勢調査員や警察官に至るまで、若い男はみんな『ダメ』になってしまいました。それでも誘き寄せられて来るものが次々やってきて後を絶ちません。そして皆、仕事や社会生活が出来なくなり、家に帰らずここに居着いてしまいました。」 自分はこの家の使用人の白髪の男たちを思い出した。 「でも木ノ崎は、章子さんの勉強を見るため、家庭教師としてここに呼ばれたんじゃありませんか。」 「実は、章子の家庭教師は、木ノ崎さんでもう6人目なんですよ。」 「6人目・・」 その言葉に自分はぞっとした。あやうく自分は7人目にされかけるところだったのではないだろうか。 自分は過去の家庭教師の男たちがどんな末路を送ったか、怖くて聞けなかった。あの魂を抜かれかけた状態である木ノ崎の様子を見れば、その結果は自ずと明らかだった。 「いまも私たちは、章子の放つフェロモンによってコントロールされています。私たち親ですら、女王アリである章子の身の世話をする働きアリなんです。木ノ崎さんもあなたも、章子の放つフェロモンにより誘き寄せられた、産卵のために必要な雄アリです。最近、章子の身体が危機を迎えて、ようやく少しコントロールが解けて、こんなことを話せるようになりました。」 「自分のように女王アリにおびき寄せられたから、もう抵抗はできないのですか。」 「前に来た時に、あなたは章子の放つ強烈なフェロモンに抗うことができました。あんなに近くで一緒にいたのに章子の罠に落ちなかったのは、唯一あなただけです。これほど自制心が強いのなら、あなたはまだ彼を救えるかもしれません・・・」
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