These05.

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「中学から陸上を始めて、 純粋にずっと、走ることが好きだった。 走るの自体は、練習も含めて全然しんどいけど。 でもレース前のアップとか召集時の緊張感も、 スタート直前の沈黙も、 途中で勝負かけるためにピッチを変える瞬間も。 観客席の声はトラックの中でも、思ったよりよく聞こえて、それを耳にちゃんと入れながら走る。 …全部、好きだった。」 この男が昔から、ずっと走ってきた姿を想像したら、また涙は出てしまう。 こくこく、何度も頷くと梓雪は瞳を優しく細める。 その三白眼が濡れて見えるのは、私の視界のせいなのかは分からない。 「…でも、大学卒業して実業団入った頃くらいから、明らかにタイムが保てなくなった。 スランプだって流せれば良かったし、頭では流してるつもりだったけど。 新聞とか雑誌の記者に、"どうしたの?"って声かけられる度、なんか凄いしんどくて。」 「…梓雪。」 語尾に近づくと明らかに頼りなさが増す声に気づいて、何か、言ってあげたいのに。 言葉が見つからなくて名前を呼ぶことしかできない。 「しかも、どうしたの?とか、 俺が1番自分に聞きたかったし。」 それでも笑顔をつくって努めて軽く言う男に、 ずっと胸が叫びつづけている。 この人にしか抱かない痛みを伴う感情が、 涙腺の刺激を止めてくれない。 「何かに追われるように無茶な練習して、案の定怪我して。 でも、怪我した時もっと分からなくなった。 もう走れないかもって思った瞬間、 “じゃあ俺、試合に出なくて良いのか“って 安堵が先に来たから。 ……いつの間にそんな風に思ってたんだって考えたら、結構、ショックだった。」 自分が好きなもの、 好きだと思っていた筈のもの。 溢れ落ちるようにそれに対する感情を見失ってしまうのは、どれだけ切なくて、しんどいことだろう。 「…もう、そんな風に思うなら走ることからは離れた方が良いと思った。 会社も辞めて、 今までやってこなかったことをしようって。 それこそ髪染めたり、 ずっと制限してたもの食べて、飲んで。 収入は必要だから、今まで部活ばっかりで殆どやったこと無かったバイトも始めて。 楽しかったよ、色んな人と知り合えたし。 これは、自暴自棄じゃ無い。 新しいこと見つけるための時間だって、思ってた。 ____でも。 やっぱりたまにランニングシューズ履きたくなる。 なんとなく陸上の雑誌とかテレビ、見る時もある。 …いつまで経っても、完全には離れられない。」 "人に対しても、何に対しても。 1つの感情を貫ける人は、強いと思うけど。 でもそれだけじゃいられない時が普通はあるだろ。" あの時、枡川さん達に抱えたぐちゃぐちゃな感情の中でもがいていた私に、言ってくれた言葉。 梓雪も同じ中で葛藤していたのだと思ったら、もう堪らなくなって。 私は背伸びをして、目の前の男の首に腕を回した。
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