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あの可愛い女が、1人で立ち向かう中。
俺はずっと、
"中途半端"なままで居ていいのか。
そんな考えは、日に日に大きくなって。
「……もしもし、久箕です。」
俺は漸く、居酒屋まで会いに来てくれた人の名刺を見ながら連絡をした。
◻︎
「八恵さん。俺は新しい道を見つけました。
あの会社には戻らない。
___でも、もう大丈夫。」
暗闇に覆われた、寒さが包む空間の中。
またしてもコンビニのバイト中に会いに来た八恵さんに、そう報告をする。
突然の俺の言葉に、彼女はいつものロングコートのポケットに手を突っ込んだまま瞳を白黒させていた。
「……新しい道?」
「居酒屋に、常連のお客さんが▲社の人をたまたま連れて来て、一緒に働かないかって誘ってもらいました。」
「…▲社って、あのスポーツメーカーの…?」
「うん。直ぐに俺のこと気づいてくれる人がいて。
今度、正式に面接受けるつもり。」
「…そんな偶然ある?」
「俺もびっくりした。」
「……今度は梓雪のこと、他に奪られちゃったか。」
はあ、と溜息を吐いた八恵さんはそう言って眉尻を下げる。
「八恵さん。ずっと心配かけてすいませんでした。」
そんな彼女へ向かって、謝罪と共に深々とお辞儀をした。
大学の頃から、この人のアプローチは凄かった。
こっちが小っ恥ずかしい気持ちになるくらいに、久箕君の走りのこういうところが好きだの、こういうところを伸ばしたいだの、飽きるほど伝えられた。
だから、八恵さんが居る会社を選んだ。
___そこに、後悔は無い。
「……梓雪、私はあんたを応援してる。ずっと。」
「…俺、もう走らないよ?」
戯けたようにそう言うと、八恵さんはまた溜息を漏らして一歩近づく。
そしてそのまま、子供を扱うようにワシャワシャと俺の髪を乱してきた。
「…何すんの。」
「ばか梓雪。
私はずっと、ランナーのあんただけを応援してきたつもり無いわよ。」
心外だわ、そう呟いた彼女の声は、らしくなく震えていた。
そしてそのままぎゅう、と男前に抱き寄せられ、突然のことに今度は俺が瞳を白黒させてしまう。
「…相変わらず暑苦しいっすね。」
「うっさいわ。
ありがたい先輩のハグは黙って受け取りなさいよ。」
ずずず、と耳元で鼻を啜る音が聞こえて、思わず笑ってしまった。
「…なんか、踏み出すきっかけとかあったわけ?」
暫くして、目尻の涙を拭いながら八恵さんにそう尋ねられる。
どうだろう。
俺の本質は、そんなにきっと直ぐには変わらない。
『……"助けてくれてありがとう"代。』
でも。
「なんか、めっちゃ可愛い女が居るんだよなあ。」
「はあ?」
「その子に、好きってちゃんと言うため?」
「……どうしよ、なんかウザい。
しかもそれ、絶対あの時居酒屋に居た子じゃん。」
「そうだよ、まじでクソ可愛い。」
「え?本当ウザい。」
全く遠慮なく自分の紬への気持ちを言い続ける俺に、八恵さんはげんなりしつつ、結局最後は呆れながら笑っていた。
"この場面"が、後々、可愛いあの女を誤解させることになるとは全然思ってなかったけど。
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