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「……おかえり。」
「うん、ただいま。」
エントランスのオートロックで、帰宅を知った私が鍵を開けて数分後、玄関のドアが開かれる。
出迎えてそう言えば、スーツ姿の男が三白眼をふわりと細めて笑っていた。
以前とは随分、雰囲気が変わった。
黒髪になって、会社へ行く時は少し前髪を上げてセットして。
元々すらりと細いくせに引き締まった身体付きをした長身の男は、当たり前のように黒のスーツを難なく着こなしていた。
私は未だに、出会った頃とのそういうギャップにそわそわしてしまったりする。絶対、言わないけど。
毎日では勿論無いけど、漸く仕事が落ち着いてきて帰宅時間も安定してきた梓雪は、そのままうちに来ることが多い。
「もっと早く連絡してっていつも言ってるのに。」
「LINEしたけど?」
「だから、マンション前での連絡は意味ないの。」
「…でも、結局出迎えてくれるじゃん。」
「……」
品のある革靴を脱ぎ終えた男は、リビングへと続く廊下の最中で後ろから私の首に両腕を回してくる。
そのまま顎を私の頭に置いて、「あー、疲れた。」と疲労を濁り無く吐き出した。
「離して。」
「充電は大事だろ。」
ぎゅ、と拘束する腕に力を込める男にきちんと抵抗出来ない私は、とっくに弱い。
この優しい温もりとか、男から香る柔軟剤の匂いとか、全てに心地よさを感じてしまう。
背中ごしに感じる梓雪の心臓の音さえ、ずっと聞いてたい感覚に、もはや少し怖くなる。
私、どれだけこの男のこと好きなんだろう。
「……梓雪。」
「ん?」
「今日も、お疲れ様でした。」
前を向いたまま、後ろにいる男をそう労うと、耳元でクスクスと空気を遊ぶように笑われて、その擽ったさに肩が少しびくついた。
「なんで敬語?」
「…なんでだろ。」
「紬。」
柔らかく解した声で名前を呼ばれて。
振り向きざまに、ちゅ、と軽く音を鳴らした短いキスが落ちて、今度はそのまま正面を向き合った状態で再び抱きしめられる。
「…今のは、どういう流れなの。」
「彼女にキスするのに理由要るんですか。」
「……、」
まあ、確かにそれは、要らないとは思う。
否定が出せない私に、若干勝ち誇った顔をしたむかつく男が再び距離を近づけてくるから、結局目を閉じてそれを受け入れた。
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