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多田
放火魔
「あら、旦那様。お帰りなさいませ」
エントランスの扉を開けると女中が迎え出た。外套と襟巻きを手渡して、首元にきつく締めたスカーフを緩める。
「只今帰りました」
体に纏わりついた冷気に身を竦ませると、階段の上から妻が顔を出した。床に就こうとしていたらしく、薄いローブの上に半纏を羽織っている。
「お帰りなさい、貴方。こんな夜遅くに何処へ?」
「少し散歩をね……。仕事に行き詰まっていてね。気分転換だよ」
「そうなの? 貴方寒いのは苦手でしょう。あたたかくしておやすみなさいな」
冷たさに火傷痕が引っ張られて痒みが走る。頬も耳も指先も氷のように冷たく、早くこの冷たさをどうにかしたかった。
「うん、わかっているよ、ありがとう。お前も十分あたたかくして寝るんだよ」
妻は俺と女中におやすみと告げて寝室へ消えていった。
「書斎の暖炉は火を入れておきましたので」
「ありがとうございます。俺のことはいいから、貴方も早く休みなさい」
女中は礼儀正しく礼を述べて自室に下がった。
ひとりきりになると、耳の奥で炎の爆ぜる音が聞こえてくる。部屋の暖炉のものではなく、先程目撃した民家の火事。乾燥した冬の夜に、それは轟々と勢いよく燃えていた。おそらく人はいなかったと思う。まあ別に、死人が出たところで俺の知ったことではないのだが。
「……今夜は一段と冷えるな」
寒いのは嫌いだ。俺は人より寒がりで、冷え性で、寒いのが苦手だ。だからいつもしっかり防寒具に身を固めて外出するのだが、それでも堪えきれない時もある。
寒ければどうすればいい?
あたたかくすればよい。
それでも寒ければ?
さらにあたたかくすればよい。
単純なことだ。
遠くで鐘の鳴る音がする。火事を報せる鐘の音。ここは遠いから、延焼に怯える心配はない。
丁度火事の現場に出くわして、その炎は驚くほどにあたたかく、体の芯まであたためてくれた。息も凍るほど寒い夜に、これほどまでに俺をあたためてくれるものはいなかった。今にも俺を飲み込まんとする猛火を前に、俺はこう思ったのだ。
──この手があったか、と。
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