1章

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1章

「私と一緒に来るか?」  彼はボロボロのぼくを見下ろしながらそう言った。泥だらけの自分の足ばかり見て過ごしていたぼくには、その姿は、とても大きく見えた。  * * *  ぼくにはご主人様がいた。ご主人様はとても気まぐれだ。酔ってご機嫌に帰ってきた日はラッキーで、鼻歌を歌いながらぼくの頭を撫で、おいしいご飯をくれる。いっぱい食べると、偉いなと褒めてくれて、ぼくはゴロゴロと喉を鳴らす。でも、そんな日は稀だった。大抵は、怒った顔をして帰ってきて、鞄を投げて、ぼくに八つ当たりをする。ご主人様には「しごと」というものがあって、毎日そのために出かけている。どうやら、人間は「しごと」とやらをやらないといけないらしい。そして、その「しごと」で嫌なことがあると、怒って帰ってくるのだ。かわいいかわいいと言って顔をこすりつけてくれたのは、この家に来てはじめの頃だけだった。  ある日ぼくは、逃げ出した。先のことなんて、あまり考えていなかった。とにかく、そのときはご主人様の機嫌の悪い日が続いていて、長いしっぽなんてもう千切れそうで、早くあの場を離れたかった。  夜の町を走って、走って、走り抜いた。とりあえず、ご主人様の家からはだいぶ離れたように思う。  とある町にぼくは住むことにした。住むと言ってももちろん家はなく、ただ生活の拠点にしているだけだ。人間の捨てるゴミを食べて、毎日を過ごす。人間に見つかると怒られるので、夜にこっそり食べに行った。ご主人様のあたたかい家と違って、外は寒かったし、雨にも濡れて体は汚くなるけど、ぶってくる人間はいなかった。それだけで、前よりいいやと思えた。  そして、町の暮らしにも慣れてきた頃……その日は、嵐だった。とても風が強くて、まだ大人になっていないぼくは、気を抜くと体ごと飛ばされてしまいそうだった。なんとか乗り切ったものの、初めて、「やっぱり、逃げ出さない方が良かったかな」という思いが込み上げてきた。ご主人様との暮らしは、痛かったけど、こんなに身の危険を感じるほどのことはなかった。そんな風に後悔し始めたとき、ぼくの目の前に現れたのが彼だ。 「私と一緒に来るか?」  ぼくの目の前で足を止め、低い声で彼は言った。見上げると、ぼくの倍以上はありそうな大きな黒い体の犬が、空の光を塞ぎ壁のように立っていた。ぼくは警戒してフーッと言った。足は太くて、目つきも鋭く、「強そう」だった。ぼくは急に自分の小さくボロボロな体が恥ずかしく思えた。 「私もお前と同じだ。人間から逃げ出してきた。私は、同じ境遇の動物たちで、暮らしたいと思っている」 「なんで、逃げ出してきたってわかるの?」 「首輪がついているじゃないか」  たしかに、ぼくにはご主人様につけられた首輪がついていた。人間に飼われていないものは、これがつけられていないらしい。 「一人だと何かと心細いだろう。来い」  そう言うと彼は歩き出した。足元の土はまだ嵐でぐちゃぐちゃで、歩くとぬっぷりと足が沈んだ。前を歩く彼の足跡は、ぼくの足二本を置いても足りないくらい、大きかった。
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