3章

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3章

「何かあったか。最近同じものばかり持ち帰るが……どこへ行ってるんだ」  彼の元へ戻ると、そう問われた。  それはまるで父親のようだった。そう、ぼくにとっては厳格な父であり、頼れる兄であり、心許せる友だった。 「同じところばかりから盗むのだと、バレて危険だろう。どこへ行っている?」 「なんでもないよ」  そう言いながら彼の前をすたすたと通り過ぎようとする。ぼくは初めて彼に嘘をついた。このとき彼に、ちゃんとぼくから相談すべきだったのかもしれないけど、男の子の言葉は聞かなかったことにすればいいと思った。彼を置いて行くなんて、できるわけがないから。 「もしかして人間の家か」  背筋がひやりとした。 「違うよ」  ぼくは二度目の嘘をついた。 「いや、怒っているんじゃない。止めたいんじゃない。逆なんだ」  彼はぼくの前にゆっくりと歩いてきて、どっしりと座り、話を続けた。しわしわの顔の奥で光る目を、じっとぼくに向ける。 「いいか、もしお前を拾ってくれるような人間がいたのなら、お前はそちらに行け」  思わぬ言葉にびっくりして、ぼくは目を丸くした。 「いつも言っているだろう。人間は悪い奴ばかりじゃない。私は、ほかの逃げた動物も探して、皆で暮らそうと思っていたが、今のところ見つからない。それはいいことだ。不幸な動物が少ないということだからな。でもそうすると、私とお前だけになってしまう」 「いいじゃないか。ぼくとあんたで、ずっと一緒に暮らせば」 「動物は、それが良い人間でさえあれば、人間に飼ってもらった方が安全なんだ。あたたかい家も、飯もある。病気になったら、病院に連れて行ってもらえる。私はもう年老いていて、拾う人間は現れないだろうが、お前には未来がある」 「でも、ぼくはあんたと一緒にいたいよ」  彼はぼくをじっと見つめて言った。 「いいか、私はもう、先が長くない。せめてお前の幸せを確認してから、死なせてくれないか」 「良くない! ぼくは、ぼくは今でも幸せだよ」  必死に訴えた。いいか、じゃない、全然良くない。なぜ、決めつけるのだろう。あんたと共にいるより、人間と共にいることの方が幸せだと。  今回ばかりは、「わかってるよ」なんて、言えなかった。   「私の言うことが聞けないのか」 「聞けないよ! 聞かない!」  ぼくは耳を塞いで叫んでいた。彼のしわしわの額にパンチする。彼に反抗したのも初めてだった。大きな体の彼が少し後ろによろけた。 「そうか……」  彼は悲しげにそう呟いた。 「お前に会えて、よかったよ」  彼のその言葉を聞かずに、ぼくは走り出していた。  ぼくは逃げ出した。こんなに全速力で走ったのは久しぶりだ。人間から食べ物を盗んだあとは全速力で逃げていたけど、最近はずっと、男の子の家にご飯をもらっていたから。  そういえばあの日も全速力で走っていた。彼と出会う前、人間から逃げ出した日。  別に今回は、彼から逃げ出したかったわけではない。ただ、彼の言う言葉が、受け止めきれなかった。  彼はぼくといて楽しくなかったの? ずっと一緒にいるんじゃなかったの? だって、逃げ出した動物たちを集めて、暮らすって言ってたじゃないか。たとえ集まらなくて、ぼくたちだけだったとしても、いいじゃないか。  なんで人間のところに行けなんて言うの? 離れろなんて言うの? いやだ、いやだよ。一緒にいたいよ。  一緒にいたいと心の中で叫ぶのと矛盾して、ぼくはどんどん彼から遠ざかっていた。走って、走って、走り抜く。  しばらくして走り疲れて、今日はそこでそのまま寝ることにした。眠れそうなスペースを探して、入り込む。彼のお話を聞かずに眠るのも、久しぶりだ。彼がそばにいないから、いつもよりちょっと寒い。  歩くと地面の土が少し濡れていて、足跡がついた。それはやっぱり、彼のものよりずっと小さかった。
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