“言の鎖”

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 口元が緩むのを自覚しながら包丁を引き抜き、そこでうつ伏せに死んでおるタカシに投げて寄越す。  タカシの止まっていた心臓と手足の筋肉を少しばかり動かして体を起き上がらせると、それを見た女が悲鳴を上げた。 「う、うそ、確かに死んで……いやあっ! こないでっ!」 「心配せんでも死んでおる。それはわしが起き上がらせただけよ」  まあ刺しても死なん女に怯えておるところに殺した者が起き上がっては錯乱するのも無理はないかのう。  恐怖と驚愕をこれでもかと盛り付けた女の表情に先ほどまでとは別の満足感を覚えながら、タカシに包丁を拾わせて自らの腹を刺させる。 「ひっ!?」  それを見た女が短い悲鳴を上げて絶句した。 「タカシは自殺したことにしておこうと思ってのう」 「じさ……つ……?」 「職もなく人付き合いもなく半年も引きこもっておった中年男が世を儚んで自ら命を絶ったとなれば誰も詮索なぞするまい。汝とてやむにやまれぬ事情があったとはいえ殺人犯にはなりたくなかろう?」  タカシが再び前のめりに倒れるのを目の当たりにして少しは落ち着いたのか、女がこちらを凝視する。なかなか肝が太いのう。愛いやつめ。 「あ、あなたは、何者なの」 「わしは神である」 「神?」 「然様(さよう)」  頷いて刺された腹を指さす。既に肉の傷は埋め合わせてあるが、説得力を与えるために目の前で薄絹を修繕して見せた。 「うそ、治ってる……」 「わしに刃を向けた罪は不問としよう。汝のわしに対する怒りは別に不当でもないしのう。だが僅かなりとも鬱憤を晴らしたのであればそこまでにしておくがよい。どのみちわしを殺しも苦しめもできぬ」  そう釈然とせん顔で睨んでも無理なものは無理なのだ。まあ死んで見せてやっても構わんが、自在に甦られるわしには生死の概念がそもそも無意味。 「さて、ともあれ汝を(かどわ)かしてきた男はもう自分で腹を刺して死んだ。そしてわしは汝をする気はない。ゆえにあとは汝の好きにせよ。望むならばむろん」  新しい玩具を見据えてと嗤う。 「元の姿にも戻してやろうぞ。年相応の元の姿にのう」  わしの言葉に不安そうに自分の肢体へ視線を向ける。 「その若く瑞々しい肉体を捨てて元の顔と体に戻りたいと申すのであれば、その程度わしには造作もなきこと。無償で労を取ってやらんことはない」  迷っておるのう。まあ迷うであろうなあ。  それは見ず知らずの男に凌辱された忌まわしき記憶であると同時に、先日までついぞ持ち得なかった若さに美貌まで備えておるのだからのう。  さりとてその姿で生きるには今あるすべてを捨てねばならぬ。友にも、親にも、頼ることはできぬ。職も失おう。それでもなお諦められぬがゆえに迷う。 「“クミホ”よ“(こいねが)え”」  女がびくりと震えた。
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