第1章 禁猟区

3/23
前へ
/106ページ
次へ
 帰りの電車は、来た時よりも混んでいた。  小太りのサラリーマンと、学生服の少年に挟まれながらつり革につかまって、がたがたと不安定な電車のリズムに身を任せた。右に倒れてはまた戻って、左に倒れては、また戻る。おきあがりこぼしのようにゆらゆら揺れるのが、結菜は好きだった。  浮遊感を楽しむ間もなく駅に着いた。今日の夕飯は何にしようか。彼は何て言っていたっけ。軽やかな足取りでスーパーに寄り、買い物かごに食材を詰めた。会計を済ませ、買い物袋を下げてスーパーを出る。マンションへと向かいながら、まるで若奥様みたいだなと考えて、少しにやけた。  10分も経たないうちに、白い、10階建のマンションがのっそりと姿を現した。いくつかの窓から、ぽつりぽつりと淡いオレンジの光が漏れている。7階の、1番端の部屋にある明かりを見て、結菜は足を速めた。エレベーターに乗り込んで、7階のボタンを何度も押す。扉が閉まる速度すらもどかしい。 鈍い音と共に、エレベーターが停止する。一目散に飛び出して、端っこの、701号室の前でとまった。鞄から鍵を取り出して、鍵穴へと差し込む。 「ただいま」  靴を脱ぎ捨てながら、思い切り叫んだ。急いだせいで息が弾んでいる。玄関に荷物を置き、乱れた髪を手で撫でつけた。  部屋の奥で、誰かが歩く気配がする。ゆっくりと、こちらに近付いてくる。くもりガラスの扉に映った人影が揺れる。  リビングから、ひとりの男が現れた。女のようにさらりとした髪。雪のように白い肌。彫刻のように整った顔立ち。朝見た時と同じ、白いシャツを着ている。 「おかえり、結菜」  絵本から飛び出した王子様のように品のよい笑みを浮かべて、男は大きく腕を広げた。その美しさに、思わずほう、と息が漏れた。彼の美しさは衰えることを知らない。頭の先からつま先まで、味わうように何度も視線を往復させてから、結菜は思い切り抱きついた。 「ただいま、雪人」  名前を呼ぶと、望月雪人は背中にまわした腕にぎゅっと力を込めた。おかえり、と囁く低い声が、結菜の鼓膜を優しく震わせる。彼の声を聞くたびに、結菜の体はバターのようにとろけていく。溶けて、流れて、消えていく。 「さっきね、安達君に会ったの」 「ふたりきりで?妬けるな」 「真剣な顔で『雪人が死んだ』なんて言うんだもん。笑いを堪えるのに必死だった」  雪人の柔らかな髪が顔に触れてくすぐったい。 「ばかな人。雪人はちゃんとここにいるのにね」 「健次は正しいよ。僕は死んで、そして生まれ変わったんだ」  力強く、雪人は囁く。 「僕は結菜のためだけに生きる。だから結菜も、僕だけのものでいてね」  それは呪文だ。二度と離れられぬよう、互いを縛る魔法の言葉。手錠を掛けるよりも、指輪をはめるよりも、ずっと強く互いを縛る。 「……ゆきとぉ」  確かめるように名前を呼んで、雪人に足を絡ませた。そうすれば、結菜、と名前を呼んでくれる。ありったけの愛を声に乗せ、結菜の鼓膜を犯していく。愛している、なんて言葉はいらない。抱き合い、口づけ、何度も何度も名前を呼ぶのだ。最愛の人の名前を声にする。形にする。 舌先を離れる時は少し苦い。しかし音となり空気に触れると、途端にそれは甘さを含む。あきれるほどの睦言に酔い、今日も温度を分け合うのだ。  これは秘密の、ふたりぼっち計画。誰にも邪魔されない、ふたりだけの世界。結菜はひとりだった。雪人もまた、ひとりだった。ひとりとひとりはふたりにはならない。だから永遠に、ふたりぼっち。
/106ページ

最初のコメントを投稿しよう!

77人が本棚に入れています
本棚に追加