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帰りの電車は、来た時よりも混んでいた。
小太りのサラリーマンと、学生服の少年に挟まれながらつり革につかまって、がたがたと不安定な電車のリズムに身を任せた。右に倒れてはまた戻って、左に倒れては、また戻る。おきあがりこぼしのようにゆらゆら揺れるのが、結菜は好きだった。
浮遊感を楽しむ間もなく駅に着いた。今日の夕飯は何にしようか。彼は何て言っていたっけ。軽やかな足取りでスーパーに寄り、買い物かごに食材を詰めた。会計を済ませ、買い物袋を下げてスーパーを出る。マンションへと向かいながら、まるで若奥様みたいだなと考えて、少しにやけた。
10分も経たないうちに、白い、10階建のマンションがのっそりと姿を現した。いくつかの窓から、ぽつりぽつりと淡いオレンジの光が漏れている。7階の、1番端の部屋にある明かりを見て、結菜は足を速めた。エレベーターに乗り込んで、7階のボタンを何度も押す。扉が閉まる速度すらもどかしい。
鈍い音と共に、エレベーターが停止する。一目散に飛び出して、端っこの、701号室の前でとまった。鞄から鍵を取り出して、鍵穴へと差し込む。
「ただいま」
靴を脱ぎ捨てながら、思い切り叫んだ。急いだせいで息が弾んでいる。玄関に荷物を置き、乱れた髪を手で撫でつけた。
部屋の奥で、誰かが歩く気配がする。ゆっくりと、こちらに近付いてくる。くもりガラスの扉に映った人影が揺れる。
リビングから、ひとりの男が現れた。女のようにさらりとした髪。雪のように白い肌。彫刻のように整った顔立ち。朝見た時と同じ、白いシャツを着ている。
「おかえり、結菜」
絵本から飛び出した王子様のように品のよい笑みを浮かべて、男は大きく腕を広げた。その美しさに、思わずほう、と息が漏れた。彼の美しさは衰えることを知らない。頭の先からつま先まで、味わうように何度も視線を往復させてから、結菜は思い切り抱きついた。
「ただいま、雪人」
名前を呼ぶと、望月雪人は背中にまわした腕にぎゅっと力を込めた。おかえり、と囁く低い声が、結菜の鼓膜を優しく震わせる。彼の声を聞くたびに、結菜の体はバターのようにとろけていく。溶けて、流れて、消えていく。
「さっきね、安達君に会ったの」
「ふたりきりで?妬けるな」
「真剣な顔で『雪人が死んだ』なんて言うんだもん。笑いを堪えるのに必死だった」
雪人の柔らかな髪が顔に触れてくすぐったい。
「ばかな人。雪人はちゃんとここにいるのにね」
「健次は正しいよ。僕は死んで、そして生まれ変わったんだ」
力強く、雪人は囁く。
「僕は結菜のためだけに生きる。だから結菜も、僕だけのものでいてね」
それは呪文だ。二度と離れられぬよう、互いを縛る魔法の言葉。手錠を掛けるよりも、指輪をはめるよりも、ずっと強く互いを縛る。
「……ゆきとぉ」
確かめるように名前を呼んで、雪人に足を絡ませた。そうすれば、結菜、と名前を呼んでくれる。ありったけの愛を声に乗せ、結菜の鼓膜を犯していく。愛している、なんて言葉はいらない。抱き合い、口づけ、何度も何度も名前を呼ぶのだ。最愛の人の名前を声にする。形にする。
舌先を離れる時は少し苦い。しかし音となり空気に触れると、途端にそれは甘さを含む。あきれるほどの睦言に酔い、今日も温度を分け合うのだ。
これは秘密の、ふたりぼっち計画。誰にも邪魔されない、ふたりだけの世界。結菜はひとりだった。雪人もまた、ひとりだった。ひとりとひとりはふたりにはならない。だから永遠に、ふたりぼっち。
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