第1章 禁猟区

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 夜になると、途端に空は容貌を変える。  優しさの反対に冷たさがあるように、受容の裏に拒絶があるように、空は人間の二面性を色濃く表す。気温が下がり、闇に満ちる深い夜は、どんなネオンの光も対抗馬にはならない。心までもがどす黒い闇に支配され、昔の記憶が鮮明に浮かび上がってくる。  こんな夜は、思い出が、息を潜めてやってくる。 いつの時代にも色褪せることなく、懐古の対象として脳内に存在している、過去の記憶。できることなら忘れてしまいたかった。目を逸らし、耳を塞いでしまいたかった。だが時はそれを許してはくれない。現在が過去の延長線上に存在している以上、記憶はいつまでも残り続ける。  ――あんたなんか、死ねばいいのに。  そんな言葉を、自分はどれくらい聞いたのだろう。  愛人の子。それが結菜に与えられた称号だった。疎まれ、憎まれ、蔑まれた。それが普通だった。飯を食べるように、眠りに落ちるように、至極当たり前のことだった。大企業の社長である父は、浮気相手を孕ませ、そして子を産ませた。女は母となる前に死に、子は水瀬家へと迎え入れられた。それが結菜だった。義理の母は、憎むべき女の遺子である結菜を憎み、虐げた。父は見て見ぬふりをした。  お前なんか、死んでしまえ。  愛の代わりに憎悪を与えられ、それを養分として吸収し、結菜は成長した。母を恨んだことはない。父を憎んだことはない。疎外され、虐げられることは、彼女にとって当たり前のことだったのだ。今更それを嘆く気にはなれない。  救いなど求めていなかった。必要もないと思っていた。だが自分でも気付かぬうちに、身近な存在に救いを見出していたことを知る。それが、弟の要だった。誕生日が数ヶ月違うだけの、腹違いの弟。家族の誰もが結菜を忌み嫌う中、要だけは純真無垢に結菜を慕った。自分を愛してくれる、小さな弟。要の存在だけが救いだった。大して年も違わないくせに、姉ぶって遊んであげたりした。お姉ちゃん、と名前を呼んでくれる。手を差し伸べてくれる。要といる時だけは、生きることを許されている気がした。  成長するにつれ、要は美しく「男」になっていった。姉である自分も見惚れるほど、要は綺麗な男に成長した。必然のように、愛した。愛を知らぬ自分が愛を注ぐなど、矛盾していることだったのかもしれない。それでも結菜は要を愛した。だが母はそれを許してはくれない。要が結菜に懐くのを、母はよしとしなかった。 「あんな女に近付いたら、あんたまで不潔になっちゃうわ」  いくら愛を知ろうとしても、愛を与えようとしても、この手に抱くことすら許されない。両親の仲は冷え切っていた。それでも離婚せずにいたのは、父の財産と、要への配慮だった。温かさのない、形だけの家族。ままごとのような家庭。そして日常的に起こる差別。母は要に全てを与えた。最新のおもちゃや高級なお菓子、洋服、金で買える全てのものと、愛。結菜に与えられたのは、必要最低限の衣類と食事だけだった。そうやって、母は区別したのだ。実の子である要と、浮気相手の子である結菜を。  時と共に、要も結菜がどういう存在かを認識し始めた。結菜が母に嫌われる理由も理解した。要は母を責めることができなかった。その優しさゆえ、どちらかに肩入れすることはできなかったのだ。結果、要はどちらとも距離を置くようになった。家族から会話が消滅した。  本当は、要をこの手で抱き締めたかった。愛していると言ってあげたかった。だがそれは叶わない。今までも、これからも、永遠に。もしかしたら、家族愛以上の感情を要に抱いていたのかもしれない。唯一優しくしてくれた人。純粋な感情を向けてくれた人。その優しさに、甘えたかっただけなのかもしれない。知らず知らずのうちに、自分は逃げ場所を探していたのかもしれない。平気な顔をしながら、大丈夫だと言い聞かせながらも、きっと心は求めていた。愛情を。そして、居場所を。
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