第1章 禁猟区

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 自分の存在が母を、そして要を苦しませている。自分は水瀬家にいてはならないのだ。だから、高校に入学すると同時に家を出た。いや、追い出されたと言った方がいいのかもしれない。わざと自宅から遠い高校を受験したのは結菜自身だ。そして、それを喜んだのは母だった。 「あなたのために部屋を借りてあげたの」  母は喜々として言った。 「嬉しいでしょう」  答えなど、初めから決まっているというのに。 「ありがとう、ございます」  そんな茶番を平気で行った。澱んでいく心は悲鳴を上げることもできない。  結菜の進学した高校は、全国有数の進学校だった。友人と遊ぶこともなく、趣味に没頭するわけでもなく過ごしてきた結菜にとって、勉強は唯一の暇つぶしだった。その積み重ねが、いつの間にか成績の向上に繋がっていたらしい。いくらテストで満点を取っても、褒めてくれる人などいないというのに。  成長するにつれて、感情は存在意義を失っていく。喜びも悲しみも、分け合う人などいやしない。小学生の時、笑わない子、つまらない子というレッテルを貼られた。中学では愛想笑いを覚えた。高校では少し疲れた。必要最低限の付き合いと、必要最低限の会話。それだけの技術をやりくりして、1日1日を生きていく。朝起きて、学校に行き、授業を受け、家に帰り、眠る。たったそれだけのことが、徐々に結菜から生気を奪っていく。呼吸をすることも面倒で、瞬きすらも煩わしい。世界はいつだってモノクロだった。  愛想のない自分にも、愛想を向けてくれる子はいた。それは少なからず救いであったし、ありがたかった。人と話すことは苦手だけれど、人間関係は卒なくこなしたと思う。上辺だけの友情。まがいものの平和。そういうことに関しては、結菜は長けていた。  こうやって人生は過ぎていくものだと思っていた。四季の美しさに心を震わせることもなく、誰かの優しさに感動することもない。太陽の熱に汗を流し、頬にあたる風の冷たさに身を縮める。そうやって時は過ぎ去るものだと。  そんな時だった。彼に出会ったのは。 「望月雪人と同じクラスなんて、ラッキー」  高校3年の春。そう喜ぶ女子の声をよく聞いた。数少ない友である井上詩帆も例外ではなかった。 「望月、雪人?」 「なに、あんた知らないの? モテモテ王子だよ。ほら、あそこ」  そう言って詩帆が指差す先に、彼はいた。  色白で、儚げな少年だった。数人の男女に囲まれ、楽しげに談笑しているその姿は、まるで映画の一シーンのようにきらきらと輝いて見えた。  あれが、望月雪人。  成績もよく、運動神経もいい。誰にでも分け隔てなく接し、誰からも愛される美少年。ほんの少し、要に似ていた。  ただ単純に、憧れた。その不自然なまでの完璧さに。背徳的なほどの美しさに。  気が付けば2年以上要に会っていなかった。正月すら、帰省することは許されない。完全に見捨てられたのだ、自分は。  今頃、要はどんな風に成長しているのだろう。声は低くなっただろうか。勉強はちゃんとしているだろうか。もしかしたら恋をしているかもしれない。恋人ができたかもしれない。そうだったら、少し寂しい。そんなことを考えながら、雪人と要を重ねていた。要を見守ることは叶わないから、代わりに雪人を目で追った。声を掛けることなどできなかった。誰にでも愛される雪人は、自分には眩しすぎたのだ。  人はみな平等だと偽善者は謳う。だが雪人を目の前にしたら、誰がその言葉を信じようか。誰もが雪人を慕った。誰もが雪人を愛した。きっと神ですら、彼に魅了されているのだろう。そんな雪人と自分が平等だなんて、考えることすらおこがましい。  雪人は完璧だった。雪人は完全だった。黒い噂もあったが、そんな些細なことは気にもならなかった。誰も気にしていなかった。  数多くの女子が雪人に告白をしたが、雪人は特定の恋人を作らなかった。誰にでも優しく、誰にでも冷たかった。人気者の望月雪人は、誰のものにもならなかった。それと同時に、誰のものでもなければならなかった。モナリザのように、オーロラのように、公共のものでなければならなかったのだ。  この人を、独占したいと思った。  誰のものにもならないからこそ、自分のものにしたいと思った。何も与えられなかったからこそ、何か一つ、大きなものがほしかった。  妄想をした。監禁して拘束して、自分のものにする妄想を。本当にそんなことはできないから、頭の中で構築した。世界は広がり、やがて色が着く。思春期特有の病気みたいなものだ。頭の中で、風邪をこじらせたのだ。実現するなんて思っていなかった。思うだけなら無罪だ。  言葉を交わしたことはない。体に触れたこともない。大した接点もないまま高校を卒業し、大学が過ぎ、そうして自分は手に入れた。  彼の死と、生と、ふたりだけの孤独を。
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