エピソード10〔交錯〕

1/1
21人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ

エピソード10〔交錯〕

Chapter1  フィオナは、昨日ほとんど眠れず、昨晩のディナーも体調がよくないと食べずに部屋にこもっていた。  それを心配したジョシュアは翌朝、朝食を持ってきてくれたが、フィオナは身なりを整えていないからと、彼と顔を合わせず、朝食は侍女ソフィーに渡してもらった。 「フィオナさま。お召し上がらないのですか? 昨晩から何もお食べになってないですが、本当にお医者さまに診てもらわなくて大丈夫ですか?」  侍女ソフィーがベッドに小さなテーブルを置いて朝食を並べてくれたが、フィオナはそれに手をつけることなく、ベッドのヘッドボードに半身をよりかけていた。 「大丈夫。ちょっと食欲がないだけだから。少し一人にしてもらえる?」  侍女ソフィーは、心配そうに渋々フィオナの部屋を退室した。      フィオナは昨日、ジョアンに口づけをされ、告白されたことを思い出していた。  そして、晩餐会の夜の庭園でフィオナの唇を渇望するように奪っていったのはジョアンだったと確信した。  あの時と、昨日のジョアンの真剣な眼差しは、それが軽い気持ちではないことが、フィオナに十分伝わっていた。 (……ジョアンが私のことを好きだなんて――私は、どうしたらいいの……)  ジョシュアを愛しているのは事実だけれど、フィオナにとってジョアンも大切な存在だった。 (誰も傷付けたくない……)  フィオナが、ふと自身の右手を左手に重ねると、いつもあった感触がなくなっていることに気付いた。手元を確認すると、フィオナの左手の薬指にはめられていたジョシュアからもらった婚約指輪がない。慌てて、ベッド周辺や部屋中を探し回るフィオナ。  すると、彼女の脳裏に、昨日の図書室での出来事が蘇った。  ジョアンの手に、自身の左手を重ねていたこと。彼に口づけされ驚いて、その手を彼の手から引き抜いて、図書室から飛び出したこと。 (あの時……図書室に、婚約指輪を落としたのかしら……) ***** Chapter2  フィオナはドレスに着替え、人目を避けるように部屋から出て図書室へ向かった。図書室への廊下は人がおらず、すぐさま図書室の扉に駆け寄り手を掛けた。 (――ジョアンがいたら、どうしよう)  昨日の出来事で、ジョアンと顔を合わせづらかったフィオナは、図書室に彼がいないことを祈った。大きな扉をそっと少しだけ開けて中に誰もいないことを確認し、押し込むようにその身を図書室に滑り込ませた。  自分自身でも、なぜこんなにこそこそしているのかとも思ったが、今ジョアンに会うのはやはり気まずい気がする。  巨大な図書室に入ると、フィオナは床に目を凝らし、ジョシュアから貰った婚約指輪を探した。  昨日通った経路を辿り、そしてジョアンと口づけした窓辺まで来た。昨日の出来事が鮮明に蘇り、フィオナの頬は赤く染まる。彼女は頭を振り、そのシーンを頭から追い出して、婚約指輪を探すことにだけ集中させようとした。  しかし、昨日いた窓辺周辺を探したが、ちっとも見つからない。 (……どうしよう……ここにないともう思い当たる場所がないわ……)  フィオナが、途方に暮れていると、図書室の大扉が音を立てて動いた。革靴の音が、管楽器の演奏のように響き渡る。  フィオナは本棚越しに、その音の主を確認すると、それは朝の剣の練習をし、湯浴みを終えたジョアンだった。  彼は、いつもと変わらない優雅な身のこなしで、本棚から本を取り出して、近くの席に座り本を読み始めた。  ジョアンは片手で本を持ちながら、もう一方の手で洗いたての髪をかき上げた。湿った髪を後ろになで上げ、前髪を垂らさない髪型にすると、色香を放つ美しさの中に精悍さを増した顔つきが露わになる。  朝日がジョアンを照らし、彼の横顔を彫刻のように浮き立たせ、まだ完全に乾いていない彼の髪がキラキラと輝いている。  そんなジョアンの姿を見るなり、本棚の影に隠れてしまったフィオナ。鼓動が早くなり、彼女は心臓を手で抑えた。  いつも通りのたわいもない会話をしたい気持ちと、けれど、あのことがあって、どう接していいのかわからない気まずい気持ちがせめぎ合うも、結局彼を避けてしまっている自分がいた。  すると、ジョアンは急に席を立ち上がり、他の本を探し始めた。そんな彼が、どんどんフィオナの隠れている方に近づいてくる。  フィオナはジョアンから避けるように移動しているうちに、二階窓際の奥まで来てしまった。彼女の背後には、亡きコーデリア王妃の隠し部屋の書斎があった。  以前、ジョアンがこの隠し部屋に連れて来てくれた時に仕掛け扉になっている本棚の特定の本を傾ければ開けられると知っていたので、とっさに、その仕掛け扉を開けて中に入った。  フィオナの心臓は、ジョアンに見つからないように隠れたからか、昨日のジョアンの告白と口づけを思い出したからなのか、激しく高鳴って自分自身の耳で、その音が確認できるくらいだった。 (……ここに隠れても仕方ないのに……)  隠し部屋の扉に背をもたれ、自身の行動の不可解さを感じながら、深呼吸をして激しく脈打つ心臓を落ち着かせようとしていた。  しかし、フィオナの背後の隠し部屋の扉を隔てた先からは、ジョアンの靴音が次第に大きくなっていくのが聞こえてくる。 (――こちらの部屋に向かってるのかしら?どうしよう。ここから出なきゃ)  隠し部屋の書斎は、暖炉裏の隠し通路から庭園へと出られるようになっていて、その通路への扉も仕掛け扉で、暖炉の上にある燭台を傾けると扉が開くようになっていた。  フィオナは、暖炉の仕掛け扉を開けようと、その燭台を傾けてみたが、なかなか開かず、焦って余計に手元が狂ってうまく動かせない。  もたもたしているうちに、隠し部屋の入口の方の仕掛け扉の本棚が軋む音を立てて開き出した。  ジョアンが隠し部屋の書斎に入ってくると、暖炉の上の燭台を握ったまま体が固まっているフィオナと目が合った。彼は、一瞬驚いた表情を見せるが、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。 「ここで何してるの?」 「――あのっ――落とし物をしてしまって――でも、また今度探すわ」  フィオナは、何事もなかったように反対側にある本棚の仕掛け扉の方から退室しようとた。  彼女がジョアンの横を通り過ぎようとしたその時、突然彼に右手首を掴まれて、その場で立ち止まってしまった。  すぐ横にジョアンがいるが、フィオナは彼の方は見ることができずに、そのまま扉の方を見たまま、おどおどしている。 「もしかして、これ探してた?」  フィオナがジョアンの方を向くと、彼の指の間で、探していた婚約指輪が輝いていた。 「――うん。それ――」  フィオナは、ジョシュアにもらった婚約指輪が見つかってホッとしたのと同時に、至近距離でジョアンと向き合い、彼に真っ直ぐに見つめられ、彼女の顔は赤く色付いた。 「あっありがとう」  フィオナは、ジョアンと視線を合わせないようにしながら、彼が手に持っている指輪を受け取ろうとした。  すると、ジョアンはフィオナの差し出した左手を取った。  フィオナの鼓動は無意識のうちに早くなり、その音はこの隠し部屋に響き渡りそうな気さえしてしまう。  ジョアンは、ジョシュアがそうしてくれたようにフィオナの左手の薬指に、婚約指輪をそっと優しくはめてくれた。  それはまるで、永遠を約束する二人のように……。  時が止まったかのように二人の間に静寂が包んでいるが、フィオナの胸は早鐘を鳴らし続けている。  ジョアンは、婚約指輪をはめたフィオナの左手の甲に、口づけを落とし、そのままエメラルド色の瞳で彼女を見つめる。 「あっ、ありがとう。私行かないと――」  フィオナは赤面しているのを隠すようにうつむきながらお礼を言って、心の中の早鐘の音から逃れるように、隠し部屋から出ようとした。  するとジョアンは突然、右手を壁につき、フィオナの行く手を塞いだ。  フィオナは壁際に追いやられ、ジョアンは壁に手をついたまま半身を傾け、切ない表情で彼女を覗き込んでいる。 「本当なら俺が君に、これを渡すはずだった……」  ジョアンは、自身の左手に収まるフィオナの左手の薬指に光る婚約指輪を愁いを帯びた眼差しで見つめている。彼の長いまつげから覗くエメラルド色の瞳は水面のように揺れているように見える。 「…………どういうこと?」  フィオナは、ジョアンの言っていることの真相が知りたかった。 「本当は、君と俺が結婚するはずだった……」 「――え?」 「兄さんは、あのセリーヌと結婚するはずだった。そして、君は俺と結婚するはずだった。でも、途中で父の気が変わって、兄さんの結婚相手が君に変わった」 「――そんな……」 「事実だよ。兄さんも知ってることさ」  フィオナは、ジョシュアの花嫁候補がセリーヌだったことは知っていたが、自分がジョアンの結婚相手になるはずだったことは知らなかった。  ジョアンは、フィオナの背後の壁に右手をつき半身をさらに前傾にして、彼女の驚きを隠せない表情を見おろしている。 「――もしも……俺が君の結婚相手だったらフィオナは受け入れてくれた?」 「――えっ、それは……レノール王と父が決めることだから……」 「俺が聞いてるのは、フィオナの気持ちだ」 「……私には決める権利なんて……」  フィオナは、歯切れの悪い返答しかできなかった。実際、フィオナに決める権利はなく、王達が決めた道筋を歩んでいるだけなのだから。 「じゃあ、王が決めれば受け入れるってこと?」 「そういう意味じゃ……私は、今はジョシュアの婚約者だから……」 「――だから?……」  そう言ったジョアンの唇は、フィオナの頬に触れるくらい近く、彼の洗い立ての湿った髪がフィオナの頬をくすぐった。彼の顔は徐々に移動し、フィオナと目線を交わらせる。  ジョアンは、フィオナの薄紅の瞳を見おろすように見つめ、そのまま視線を彼女の唇に這わせ自身の唇を重ねた。 「――っんぁ――ジョアン、ダメ――」  首を横に振りジョアンの唇から離れたフィオナは、彼を制止するように言った。しかし、ジョアンはフィオナの制止する声を聞き入れず、彼女の頬を片手で包み再度唇を重ねてきた。  すると、階下にある図書室の大扉が音を立てて開き誰かが入ってきた。2階造りの吹き抜けになっているホールは、その音を反響させ隠し部屋まで聞こえた。その音は一人ではなく二人で、巨大な図書館のホールで何かを話している。  その音を聞いてジョアンは、フィオナの唇から離れ、隠し部屋にある巨大図書室のホールが見渡せるステンドグラスの丸窓から、階下を確認した。  フィオナも思わず、その視線を追いながら、図書室のホールに誰がいるのか覗き込んだ。 「待って、ジョシュア――」 「もう、この話は終わりだ」  それは、ジョシュアとセリーヌ侯爵令嬢の二人だった。 「――私は、まだあなたのことを愛しているの!」  セリーヌは、そう言ってジョシュアの胸に飛び込むと、細い腕を彼の首元に絡め、爪先立ちで背伸びをして、ジョシュアの唇を奪った。そのキスは、挨拶程度のものではなく、彼らが親密な関係だったことをうかがわせるものだった。  フィオナは、そんな二人の姿を見て思わず、走り出した。ジョアンの横をすり抜けて、庭園の方へ出る隠し扉の暖炉を開けようと仕掛けの燭台を傾けた。  さっきはなかなか開かなかったのに、今回はすんなりと扉が開いて、彼女はその通路へと入っていく。    ジョアンも、フィオナの後を追いその隠し扉の先の通路に入って行った。  フィオナは、通路に沿って並ぶ書庫を通り抜け、庭園への扉に手を掛ける。鍵っかっているかと一瞬感じたけれど、力を込めて押し出すと木製の扉は開け放たれた。  そのまま庭園に飛び出してみたものの、フィオナには行く宛もなかった。  さっきまで、すっきりと晴れていた空は、灰色のベルベッドのように重たく垂れ込み、雨粒が庭園を濡らし始めていた。  フィオナの頬を冷たい水滴がつたう。けれど、それが雨粒なのか、自分の涙なのかわからない。  走ってきたせいなのか、呼吸が乱れて胸が苦しい。どんなに空気を取り込んでも、その苦しさは一向に取れない。頭の中で、ジョシュアとセリーヌが口づけを交わしているシーンが巡っている。どんなに空気を吸っても胸が締め付けられるような感覚なのは、きっとそのせいだろう。  茫然と立ちすくんでいるとフィオナの手首を誰かが掴んだ。  振り返ると、それはジョアンだった。 「フィオナ」  ジョアンは、掴んでいたフィオナの手首を引き寄せて、彼女を強く抱き締めた。  雨粒が次第に大きくなっていく。  フィオナは、自身をきつく抱きしめているジョアンの腕を振り払えなかった。  でも、それはジョアンを利用することになる。そして、ジョシュアに叛くことなのに……。  フィオナの意識に反して、その身はジョアンに委ねていた。誰かに支えてもらわないと立っていられそうになかったから……。 ***** 初稿2021.5.17 第二稿2023.9.27
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!