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その女性とすれ違った瞬間、ひどく懐かしい匂いがした。
郷愁というのだろうか。言葉にならない感情が溢れてきて、だけど心臓は誰かに鷲掴みされたようにぎゅっと痛んで。
気づいたときには、立ち止まって相手を探していた。
夕焼けに染まる交差点。
横断歩道にはさまざまな人が行き交っているのに、彼女の後ろ姿はすぐにみつけることができた。ゆったりと歩くさまが印象的な女性だった。
腰まである黒髪は艶やかで、ぬばたまの、なんて学生時代に習って以来、口にしたこともない枕詞が脳裏をよぎる。
連想したのは夜空の元、静かに波打つ大海原。
「ああ、そうか」
懐かしいと思ったのは潮の匂いだ。
海辺の町で暮らしていた頃、あたり前のように鼻に馴染んでいた匂い。
だけどここは海から遠く離れた内陸地だ。
立ち並ぶ高層ビルに空は追いやられ、計画的に植えられた街路樹はどこか人工物のよう。自然という言葉から掛け離れたこの場所に、海の匂いは似合わない。
そのせいだろう。
黒髪をなびかせて歩く女性は、周囲の景色から浮きあがって見える。
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