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地獄(元祖)
待ち合わせの時間を30分程過ぎ、女はようやくドトールの入口に姿を現わした。
ドトールに入るや否や、女はカウンターまで勢いよく進み、そこでドトール内を素早く見回して二人席に陣取る俺の姿を見出し、必死の形相で手招きをする。
またかと嘆息を漏らしつつ、俺はカウンターに向かう。
タピオカミルクティーとジャーマンドッグ、そして、ベイクドチーズケーキとを奢らされる羽目となる。
俺はアイスコーヒーを飲んでいる。
トレイに注文した品、そして水の入った二つのコップを載せ、女は誇らしげな笑みを浮かべながら俺の席へと近づいてくる。
向かい側の席に座り、無言で手を合わせてからジャーマンドッグに貪り付く。
ジャーマンドッグを30秒ほどで平らげた後、コップの水を一気に飲み干す。
そして、口直しを言わんばかりにタピオカミルクティーを二口ほど飲んでから、フォークを手に取ってベイクドチーズケーキを荒っぽく4つに分割する。
白い皿をフォークが擦るあの音が、ざらつくような不快感を耳に残す。
水と交互に、まるで飲み下すかのように二片のベイクドチーズケーキを平らげ、ようやく女は落ち着きを取り戻す。
ゆっくりとタピオカミルクティーを飲み、ストローで所在なさげにプラスティックの容器の底に沈むタピオカをつついている。
その悠然とした佇まいは、恰も1時間前からこの席に座っているかのようだ。
唇の左端をやや持ち上げ、何故か蔑みの色を湛えた目で俺を見遣った後、女は周囲をゆっくりと見渡す。
そして、タピオカミルクティーの容器を机の上に置き、腕を組んだ後に深いため息を付く。
俺はため息の訳を尋ねる。
女は答える。
「ドトールってさ、地獄だよね。」
随分な言い草だ。自分で待ち合わせ場所をドトールと指定し、自分で勝手に決めた待ち合わせ時間に30分以上も遅刻し、そして恰も当然かのように奢らせる。
1,000円近くもだ。
俺はアイスコーヒーなのに。
それなのに「地獄」か。
女は俺のややムッとした様子など、まるで目に入らぬように言葉を続ける。
「世の中の全ての場所をさ、天国と地獄とに分けるとするでしょ。そこで得られる快と不快、その差し引きがプラスだったら天国側、マイナス側だったら地獄側。そうするとさ、ドトールは地獄になるの。」
これだけ勝手に飲み食いしておきながら「地獄」はないだろう。
さすがに腹に据えかねて、異議を申し立てる。
女はため息を付き、右手の親指と中指で両のこめかみを揉み、そしてため息とともに語り始める。
「見て、お店の中に差すこの陽の光。眩しいし、光の色合いは安っぽい刃物みたいに冷たいし、そして差し込むこの角度が大嫌い。太陽の光は上から降り注がないと駄目なの。」
「それに客層も嫌。いかにもドトールって感じ。みんな鞄が四角いのよ。それも嫌。」
「この水飲みコップも嫌なのよ。見て、食洗機で洗い倒してるから細かな傷でいっぱいよ。透明じゃなくて、もう汚い白色よ。見ているだけで惨めな気持ちになるわ。」
「ドトールで過ごす時間は好きよ。あと4時間は居られるわ。パンも美味しいわ。」
「でもね。」
「ドトールに居れば居るほど、太陽の光とか、そういった嫌なものが、少しづつ少しづつ、私の中の何かをヤスリみたいに削り取っていく、そんな感じがする。だからドトールは嫌。得られるものもあるけど、失うもののほうが沢山。」
「だから地獄なのよ、ドトールは。」
いや、それじゃドトールに居なければ良いのでは?と問うてみる。
女はため息を付く。頬杖をついて物憂げに窓の外を見遣る。そしてまた語る。
「分かってないわね。生そのものが人にとって地獄よ。」
え、何かあったのか?と問う。
「下らないこと言わないで。あなたって今この瞬間に産まれた人?人は記憶を持っている限り、それに含まれる毒からは逃れられないのよ。あの時こうすれば良かった、この時に発した言葉は他人からどう思われたか、自分のこんなところが嫌い、あんなとこが嫌だ。」
「人間ってね、幸せな記憶より、嫌な記憶のほうをよく覚えてるのよ。それらは記憶の狭間に常に潜んでいて、記憶のページをめくる時、不意打ちのようにその指先を刺してくるのよ。むしろ、皮膚の下に、自分の内側にその先を向けている小さな針が無数に埋まっていて、何か思うたび、何か行動するたびに自分に痛みを与える、そんな感じよ。」
「記憶は人それぞれ、痛みもその毒も人それぞれよ。人はみな、それぞれにカスタマイズされた、オートクチュールな地獄の中で生きているのよ。」
「だから、全ては地獄。」
そう一気に語ってから、女は残っていたチーズケーキを平らげる。
そして、スマホをバッグから取り出し、腑抜けた笑みを浮かべながらSNSに興じ始める。
[完]
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