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漆黒の光、静寂の音、速度を超えた速度
閔莝と総士は、ネットカフェを後にし、警視庁本部の一角に居を構えるDefに戻った。
ネットカフェは警視庁からそれほど遠くない新橋にある「遊楽スペース 新橋店」。
徒歩で15分ほど。車なら5分とかからない距離だ。
Defは警視庁を通じて、内偵捜査の名目でこのネットカフェの運営本社と直接契約し、この店の最奥のミドルスペースの個室を借り上げている。
一般客には一切知らされていないが、この部屋は一般客には一切貸し出されず、店員の清掃などで室内に出入りすることはできない。
そもそも、この部屋のカードキーはDefしか持っていないため、室内のパソコンにおいても履歴やキャッシュ等、いかなる情報も、新橋店店長であってさえ確認不可能である。
それどころか、そもそもこの部屋のPC自体が特別なPCに入れ替えている。
ネットカフェ常設のPCではセキュリティにおいても処理速度においても、スペック自体がエントリーユーザーレベルのもので物足りない部分が多いからだ。
さらに、ネットカフェの個室スペースは防音設備がそもそも整っているが、この個室は、さらに防音壁が重ねられ、防音のみならず防磁状態ともなっている。
もちろんカードキーについても、店のシステムのカードキーではなく、より認証レベルが高いNFCに変更されている。
ネットカフェとはいっても、この部屋だけは、他の部屋とは一線を隠したものであり、Defの分室といってもいいほどの機密性と通信性を持っているのである。
Defに戻り、音速催眠を受けた閔莝の状態を総士から聞かされた技士たちは、ざわついた。
技士の1人が総士の中和催眠の実行について問うたが、総士の話を聞き、何も手を打てない現実を知らされ落胆した。
あのときの状況からすれば、閔莝の今後については、最大の警戒をしつつも様子見をせざる得ないという判断とならざるをえず、閔莝も今日はそのまま帰宅を指示された。
帰路、地下鉄日比谷線の車内でつり革を掴む閔莝は自身の体に変調がないか、あらためて、全身に意識をめぐらせた。
なんら変わった感覚はなかった。
自分の意識も身体も自分のものであるという感覚以外はなかった。
閔莝が受けた音速催眠については、Defの技士に向けた打撃だったということには、疑う声も多かった。
そもそも、いまの孔雀院が音速催眠を使うのは、邪徒たちへの指令が通常である。
しかし、その場合の指令は具体的な内容であり、その語数も多い。
ひかりのなかにうかぶはすのはな。
こんな抽象的かつ短文が発せられたのは、今回が初めてだった。
では、やはり今回の音速催眠が別の意味を持っていたのか、ということになるが……
それでも数百万人、いや、数千万人……場合によっては億を数える視聴者に向け放たれた音速催眠が、閔莝に致命的な打撃を与えるため、ということについては、やはり疑問があった。
現在、Defの技士らは、許可なく孔雀院の動画を閲覧してはならない規則となっている。
それは言うまでもなく、音速催眠を浴びる危険性を回避するためだ。
とはいえ、最近フィルタリングされた孔雀院の動画においてはいずれも、邪徒への指令以外で孔雀院から音速催眠が発せられた痕跡はなかった。
孔雀院は動画配信チャンネル開設当時は、別の意味でしばしば音速催眠を使っていたという話を、Def入隊当初、閔莝は別の技士から聞かされた。
閔莝がDefに入った時には、孔雀院はすでにいまとほとんど変わらぬ登録者を有する超インフルエンサーだった。
しかし、孔雀院はまだ無名の頃には、自身のチャンネル登録者を増やすため、動画内でしばしば音速催眠を使っていた。
つまり、その頃、孔雀院の使っていた音速催眠は、孔雀院が初見の閲覧者たちに向け、自らへの好意を増幅させ、閲覧者を孔雀院の熱狂者に変容させるためのものだった。
それも孔雀院のチャンネル登録者が数千万人を超えたあたりからその頻度は減っていったという。
その後のネットの評判、口コミやマスコミ報道などで、ファンがファンを生み、自律的に孔雀院の熱狂者が増加するにつれ、音速催眠の頻度は減少した。
そして、現在のようなすさまじい数の登録者となった頃には、その頻度は激減した。
孔雀院の動画チャネル開設初期、Defでも自由に孔雀院の動画を閲覧できていた。
その頃、孔雀院の動画を閲覧した技士が共通して生じた変貌があった。
それは、動画閲覧したあらゆる技士たちが、間も無くして尋常ではない孔雀院への好意を抱き始めたということである。
このことから、孔雀院の発する音速催眠の内容が、そうした内容のものであるという推測が立ち、孔雀院の催眠に堕とされた技士たちはいずれも総士の中和催眠によって、その催眠を解くことができた。
なぜ当時推測でしか判断できなかったか、というと、当時のDefには孔雀院の術話内容を聞き取ることができる技士がいなかったからだ。
幸いだったのは、孔雀院は、人を獣にする術話を音速催眠で用いていなかったことだった。
当時だけではない。孔雀院はこれまで、そうした術話を一度も用いたことがなかった。
そのことは、後にDefが孔雀院の術話内容を抽出できるようになって、あらためて確認できた。
人々を獣に堕とす超催眠は、一度かかると、総士であってもその催眠を解くことができない。
人の心を奪い獣に堕とす超催眠は、複雑で重く深く硬い。
そんな超催眠は、もはやかけた邪徒すらもとに戻すことすらできないほどに、被術者の心を損壊させる。
かけた当人すらほぼ戻すことが困難な超催眠については、さすがの総士もその術を解くことができない。
ただ、それだけの硬度を持つ超催眠は、かけるまでの術話の構文量も多く、Defの技士であれば、その超催眠が完了するまでに、それを回避することができる。
しかし、もし孔雀院が人を獣に変える超催眠を音速催眠によってかけてきたとしたら……。
Defの技士は誰もそれを防ぐことができないだろう。
(俺はあのとき孔雀院の音速催眠に防戦する音速催眠で、叫ぶしかできなかった……)
あの瞬間、閔莝が総士にぶつけた音速催眠は、あー、という叫び声だけで精いっぱいだった。
閔莝が発した声はいわゆる長音、というもので、意味を持つものではなかった。
そうすることで閔莝は孔雀院に勝る速度で声を発せられると思った。
(それなのに、言葉を組み立てている孔雀院に反応するのに3文字も遅れた…。速すぎる!)
閔莝は孔雀院が音速催眠を使ってきたら、その術話の1文字目を聴いた瞬間即座に反応するつもりだった。
しかし、実際は反応できたのは、孔雀院の3文字目の後、4文字目からだった。
2文字遅れた…。
これまでの訓練で、いまでは自分の速度もいっぱしの速さとなったつもりだったが、孔雀院の音速催眠の速度を初めて目の当たりにして、閔莝は自分の甘さを痛感した。
現実を見せつけられた感じだ。
いまの閔莝でも車窓から流れる景色程度なら、それが新幹線の速度であっても、停止しているのと同じレベルで見える。
しかし、そんな程度の動体視力では、邪徒相手でも無意味だ。
目の前に浮かぶ車窓の闇にぼうっと視線を委ねる。
光と闇が交錯する。
流れる景色が地下鉄がゆえ、ほぼ闇に覆われていることが、敗北感に挫けそうな閔莝にとっては、なんだかなぐさめになった。
ぼんやりみてれば、目の前は車窓にはチカチカ光る闇の壁にしか見えない。
まだまだ足りない。
高速聴取の能力については、閔莝のそれを上回る技士は、現在、Defの技士のなかには1人もいない。
しかし、それでも足りない。
(聴き取れたところで、あーー、なんて反応なんだもんなあ。なにやってんだよ……。だめだだめだ!)
音を受け取る感覚。
その感覚に対しての認知。
その認知に対しての反応。
三位一体の総合能力ーーーすなわち、反射能力を高めていかないと、孔雀院には到底勝つことなんてできない。
目を閉じる。
ベットに横たわる春夏の顔が浮かぶ。まるで眠ってるようだ。
セミロングだった黒髪もいまではロングヘアになってしまった。
寝顔さえ綺麗なんだ。元気だったら、ハル姉は、誰もが振り向く可愛い女子なんだよ。数年もすれば、美人すぎる獣医とか言われて、テレビに出たっておかしくない。
このままお婆さんになるまで寝てるつもりかよ、ハル姉!
閔莝は目をかっと見開いた。
(弱気になってる場合か。少なくともいまの俺でも孔雀院の言葉を聞き取ることはできる。それができるのは俺しかいない。俺がやらないと誰がやれる! 負けるわけにはいかないんだよ!)
目の焦点を合わせ、脳にブーストをかける。
瞬時に光と闇で明滅する地下鉄の車窓の景色に見る見る細かな模様が浮かび上がる。
コンクリートの染み、壁面の蛍光灯、換気口、配管。
地下鉄であっても車窓の風景ははっきりと見える。
この世界に、真の闇などない。
しっかり見れば、漆黒のなかでも、必ず光も陰もある。
止めどなく流れる車窓に映る壁面のすべてのビジュアルを静止した絵画のようにして、連続して網膜に焼きつけていく。
この世界には、真の静寂もない。
どんなに静寂でも、耳を凝らせば、そのなかには、必ず音がある。
感覚を研ぎ澄ませろ。
研ぎ澄ませて研ぎ澄ませて、研ぎ澄ませた先にあるものを、さらに研ぎ澄ませろ。
そこに漆黒の光、静寂の音がある。
そして、速度を超えた速度がある。
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