楽譜に刻印された感情の記憶

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 俺は曲を暗譜するとき、楽譜を画像としてインプットする。  紙の質感、自分で書き込んだ文字、ページの折れや汚れ、それらを含めて全て画像のように脳内に映し出して弾くのだ。  『月光』の第二楽章を弾くときには、いつも楽譜についたシミを思い出す。  昔ピアノを習いに来ていた女の子が、小学二年生ぐらいのときに俺の楽譜にオレンジジュースをこぼしたことがあった。  第二楽章のページに、そのときの汚れが残されている。  そのシミから思い起こされる感情は、怒りではなくて優しさだ。  彼女は何をするにも仕草がいちいちキュートで、その姿を見ると大抵のことは許せてしまうのだった。  あの子と一緒にいた時間を思い出すと、ピアノの響きが自然と温かみを増す。  ああ、この曲は今日も俺の感情の起伏を全て受け止めてくれる。  『月光』は、ゆったりした第一楽章、少し動きのある第二楽章、急速で激しい第三楽章と、楽章が進むごとにテンポが速くなる。  第二楽章を弾き終えると、すぐにイメージを切り替えなければならない。  俺の脳内に、第三楽章のページに残された小さくて荒々しいシミがフラッシュバックする。  学生時代に恋人と大喧嘩したとき、彼女が振りかざしたカッターナイフを避けきれず右腕を切られて飛んだ血痕が。  さあ、激情を解き放とうか。
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