楽譜に刻印された感情の記憶

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 ステージに立って客席の拍手にお辞儀で応え、それから俺はピアノと向き合う。  俺が弾き始めるまで続く、この静寂の時間がたまらなく好きだ。  今日のコンサートは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ『月光』から始まる。  『月光』は、いま俺が一番自信を持って演奏できる曲だ。  一言で言えば相性がいいのだろう。  自分の感情とぴったりシンクロしていると感じる。  もっとも、それはベートーヴェンの真髄を理解しているというレベルの話ではなく、俺の個人的な感情がたまたま、この曲のテンションにハマっているだけだ。  でも俺は、表現者はそれでも構わないと思っている。  例えば、俳優が涙を流すシーンを演じるとき、ストーリーと全く関係ないことを思い浮かべて泣いていたとしても、見ている俺たちには関係ない。  聴衆は目の前で起こっていることを、各々が思い描くシチュエーションに流し込んで心を動かしているのだから。  指先に体の重みを伝え、第一楽章をそっと弾き出す。  湖面に揺れる月のイメージが目の前に広がっていく。  このホールのピアノの音色は好きだな。  今日はきっといいコンサートになるだろう。
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