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大学から駅までの道は、緩やかな下り坂になっている。川口君は、十メートルくらい先を歩いていて、私の位置からは見下ろすような形になる。
ちょっと早足で行けば、追いつく距離だ。しかし、私は一向に話しかけられなかった。周りには、私達と同じように帰途につく学生がたくさんいた。彼に話しかけようにも、周りの目が気になってしまう。もともとが引っ込み思案な私、しかも今までしゃべったこともない彼に話しかけるなんてハードルが高すぎる。どうすればいいのか。どうしたらいいのか。今の私には知恵も勇気もない。
その時、彼が急に進路を変える。そして、誰も通らないような脇道に入っていった。私は脇道の直前で立ち止まる。なぜ彼はこんな細い道に入ったのか。彼は駅に向かうものだとばかり思っていたが、もしかしてどこかに寄るつもりなのだろうか。ここで私がついていったら不審に思うだろうか。
しばらく悩んだ末、私は彼が入っていった脇道へと足を踏み入れる。もうどうにでもなれという気分だった。
脇道を抜けると、住宅街へと出てきた。見覚えのある道だった。ここは駅からも近い場所で、どうやらショートカットしたみたいだ。何回も通学しているのに、全く知らなかった。
視界には、三十メートル先、彼の姿があった。周りには誰もいない。私は足音を殺して近づいていく。
十メートル。彼の姿が大きくなってきた。彼の淡々と歩く姿がはっきり見える。
五メートル。彼の靴のメーカーまでくっきり分かる距離だ。
二メートル。もう彼はすぐそこ、足音まで聞こえる距離になった。今しかない。心臓はもう飛び出そうなくらい激しく動いている。私は大きく息を吸い、口を開いた。
「川口君」
彼が立ち止まった。そして、振り返り、こちらを見る。彼と視線が合い、全身が沸騰したように熱くなる。
「あ、あの」
何か言おうとしたが、頭が真っ白になる。さっきまで言うべきセリフを考えていたのに、頭から消え去ってしまった。彼の細い目が、じっとこちらを見ている。
「小説、書いているの?」
何とか声を絞り出した。彼はじっと動かず、こちらを見ている。
「あの、川口君の黒いノート、ちらっと見ちゃって、それで、私も小説を書いているから、興味が出て、それで……」
私は壊れたラジオみたいに、しゃべり続けた。彼は相変わらず無表情で、さらに焦ってしまう。
「あの、それで、あの、小説を書いてるのかなって思って」
私はそこで口を閉じ、顔をうつむける。
最悪だ。急に声をかけて、こんな訳の分からない話をして、迷惑に違いない。タイムマシンで戻りたい。一分前の自分に。そして、全力でどこかに逃げたい。
「そうだよ」
彼の声がした。私はゆっくり顔を上げる。彼は、いつもと同じ冷たい表情をしている。しかし、初めて聞く彼の声は、温かく、優しさがこもっていた。
「駅まで歩きながら話そうか」
彼はそう言って、再び歩き出す。私は慌てて、彼の横に並ぶ。
「若松さん、だったよね。どんな小説を書いてるの」
彼の言葉に、私はドキリとする。彼から質問されるなんて思ってもみなかった。私は言葉に詰まる。こんな風に誰かに小説のことを言うなんて初めてで、急に恥ずかしくなる。
「あの、恋愛の、話とか、他にもファンタジーとか」
「ふうん。そうなんだ」
彼が小さくうなずく。そこから会話がなくなり、私と彼の間に沈黙が流れる。足下を吹き抜ける風の音と、二人分の足音だけが響く。何かしゃべらなければ。私は必死に脳味噌を働かせる。
「川口君は、なんで小説を書こうと思ったの」
私の問いに、彼は「ううん」とうなる。
「小説を書こうと思ったのは、なんとなく、かな」
彼がぼそりとつぶやく。口から白い息がのぼった。
「頭に小説のイメージが浮かんで、それで無心で書いていったんだ」
「へえ、そうなんだ」
「けど……」
彼がすっと視線を上げる。私はその横顔に、しばらく見とれてしまう。
「書き続けているのは、ある人がずっと応援してくれたからなんだ」
「ある人……」
私の心臓が再び鼓動を早め、胸が熱くなってくる。
「俺、ネットでずっと小説をあげてたんだけど、ほとんど読んでくれる人がいなかったんだ。けど、一人だけ、いつも俺の小説を読んでくれる人がいたんだ。どんな時も、俺の小説を読んでくれて、コメントをくれてさ。それがあったから、今も小説を書き続けているかもな」
私は彼の顔を見ていられず、うつむく。川口君に、いつもコメントを送っていた人、そんなの、世界に一人だけしかいないじゃないか。
恥ずかしさで、私の顔はすっかり茹で上がっていた。今にも火が出そうだ。
「ちょっと、どうしたの。大丈夫?」
彼の心配そうな声が聞こえる。
「うん。大丈夫」
大丈夫なはずがなかった。耳からは湯気が出ているに違いない。彼の言葉で、冬とは思えないくらい、暖まっていた。私の体も心も。
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