第二話 私はなにも困ってないです

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 白守と名乗る少女について振り返っているのか、それとも特異な現状への打開策を練っているのか、あるいは自身の境遇を(うれ)いているのか。傍からでは意思の読み取れない無表情の創の口から、言葉は発せられた。 「君は、まだ小学生だよね」  白守は背中のランドセルを創に向けて「そうです、現役の小学生です」と答えた。振り向いた少女の華奢な首筋には、まだ新しい擦り傷が赤く(にじ)んでいた。 「その割には随分と遅くまで出歩いているんだね。それもこんな人気のないところをたった一人で」  今度は手にした豆腐をウェイターのように掲げる。露わになった細い腕には、創の渡した物とは別の絆創膏が数ヵ所に貼られていた。 「ごらんのとおり、お豆腐を買いに行ってるです。慣れた道ですし、お豆腐屋さんとは顔なじみですので、何も不安なことはないです」 「お豆腐屋さんって、あの三丁目のお稲荷様のそばにある?」 「そうです、私の行きつけのお豆腐屋さんです。おそらくあなたもご存じの」  三角家も数年前までは三丁目の豆腐屋を利用していた。しかしスーパーマーケットが徒歩圏内にできてからというもの、めっきり足が遠のいているのが現状だった。 「あなたのお宅のご近所に出来たと噂のスーパーにも行ってみたいものですが、私は帰ってからやらなくてはいけないことがありますので。それを終えてからそちらまで足を延ばせば、帰りには警察に補導される時間になってしまうです」  手錠をかけられた囚人の真似をして差し出された本来なら瑞々しく白いはずの少女の手首には、大きな青(あざ)が残されていた。創はいよいよ白守の腕を取り、内出血の痕跡に顔を近づけた。 「な、なんですか急にっ、レディーに失礼ではありませんか!?」  白守は慌てて創を振りほどくと、洋服の袖を必至に伸ばした。それでも隠す事など到底かなわない程に痣は大きく広がっていた。 「君は何か困っていたりしない?」  創の言葉に白守は伏目がちに下唇をそっと噛む。豆腐の乗った小皿を持つ手は次第に強張(こわば)り、前髪に隠れていてもその表情は決して明るくないとわかる。 「もし、僕で良ければ相談に乗るけれど」  少女の口はいくつもの糸が複雑に絡んだように頑なに縛られていた。一度結ばれてしまった紐を(ほど)く為に時間がかかるように、二人の間には長らく沈黙が続いた。揺れ動く葛藤の天秤、いっそどちらかの受け皿に隕石でも降ってくれれば決意も固まるのにという雁字搦(がんじがら)めが、少女を束縛しているように見えた。 「あの――」  それでも少女が創の問いに答えかけた瞬間、二人の閉じ込められた空間が大きく揺れ出した。立っているだけで精一杯という強い衝撃が、何度も何度も繰り返し二人を襲う。揺れる世界の中で創は再び白守に寄り添いその小さな体を支え、白守は創の学生服の裾を握りしめた。  衝撃は断続的に空間を揺さぶり続ける。それはまるで、出る杭を完膚なきまでに打ち付けるように繰り返され、芽生えた若葉を遮二無二(しゃにむに)踏み潰すように繰り返された。ようやく衝撃が止んだのは、不安(ひし)めく空間の内で、支えを求めて握りしめられていた白守の手が、諦めたように手放された後だった。  やがて空間が平静を取り戻すと、少女はこの日初めての笑顔を創に向けた。 「あの――わたしごとをお話ししてしまってすみませんでした。三角創さん。あなたは何もお気になさらなくていいです。よくある話です。両親は離婚して、私は母方に引き取られました。でも母はすぐに事故でなくなって、今は祖母と二人で暮らしています。でも何とかやっていけてます。だから何も困ってないです。ご相談することなんてなにもないです」  傷だらけの体に、擦り切れたランドセルを背負って、たった一丁の豆腐を大事そうに抱えながら、白守は儚げに笑いかけたのだった。
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