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 翌日、階段教室で隣の席に滑り込んできた大場くんの右耳は、痛々しく包帯でぐるぐる巻きにされていた。  昨日の今日で隣に座れる感性は疑問だが、明らかに怪我人という見た目とはいえ大学に出て来れる程度で済んだのかと密かに胸を撫で下ろした。  そういう罪悪感に心を乱されるくらいなら、最初から傷付けなければいいのだけど。 「これ。やったの、君か?」 微妙に気まずい距離感を、先に壊してきたのは大場くんだった。彼はのろのろとした仕草で耳の包帯を指先でとんとんと叩いた。 「え……とぉ……」 どうしよう。 「俺気絶したのかなあ……次に目を開けた時には血の塊で右耳が聞こえなくなっててさぁ……途中から記憶がないんだよね」 ……この感じ、ごり押したら誤魔化せそう? 「ああえっと……俺が咄嗟に突き飛ばしちゃって、それで打ったんじゃないかな……? 俺もその、薬……とか飲んだし……あんまり覚えてないっていうか……」 俺が声を潜めるようにすると、大場くんの眼が一瞬うろうろと泳いで伏せられた。  覚えていない、は賭けに出た嘘だが、薬で自由を奪われていた間の、自分の身体が自分のものじゃないみたいな屈辱は今思い出しても生々しい。 「……いっそ本当に、君に殴られたんならよかった」 「……」 「そういえば、羽倉くんが俺には見えない誰かと会話してるように聞こえたんだけど」 ……誤魔化せてないじゃないか。 「あ、えっと……」 「あの薬、そういう作用もあったんだな」 ……誤魔化せた、っぽい……?  曖昧に笑って流していると、俺の方に少し身体を捻るようにした大場くんが机に手をついて頭を下げてきた。 「羽倉くん、あのっ……昨日は本当に……申し訳なかったっ!」 周りの席の学生たちが、ちらちらとこちらを見た。それはそうだろう。見た目だけなら、謝る方が逆だ。  てめえの顔など二度とみたくないと、断じて、拒絶することは簡単だ。  それでも。 「……それは……分かった、から。あとで、ちゃんと話そう。二人で」 始業のチャイムの裏側で、気付けばそう言っていた。大場くんの眼が小さく見開かれていた。俺のこの返答は予想外だったんだろう。俺も自分がこんなことを口走るとは思っていなかった。でも。  諦めたくない。  心のどこかで、ずっとそう思っていたのかもしれない。 「俺は君に言いたいことがある」 授業の終わった後に俺たちが移動した先は、昨日と同じ建物の狭間のコンクリート張り。  向かい合わせに立つ大場くんはじっと押し黙っている。 「勝手な理由で俺をいじめて、何も解決しないまま離ればなれになった後も、君は何もなかったような顔で、普通の人生を過ごしてきたんだろう」 「……」 「俺はそうじゃない。中学でも高校でも、友達は一人もいなかった。君はいつか、俺を好きになったのが間違いだって、そう言った。馬鹿みたいだけどさぁ、俺はあの一言にずっと囚われてたんだよ。俺に向く好意は間違ったものなんだって、そう思い込んでた。だから、人と関わらないように生きていこうって決めた。俺は、あんな10歳そこそこのガキに言われたたった一言に人生を変えられたのに、君は俺がそうしている間も、のうのうと平和な日々を謳歌してたんだろうって思うと、はらわた煮えくりかえるんだよ、正直」 大場くんはここまで一度も口をはさむことなく項垂れていた。 「君みたいな鬼畜野郎が、一言だって詫びの言葉を投げかけてきたこと、迂闊ながら嬉しいと思った」 大場くんが視線を上げた気配がする。 「……でも俺は君を赦さないよ。赦さないし、この先も赦すことは一生ない」 「……それは……当然の反応だと思う」 ここに来てから初めて口を開いた大場くんの声は、絞り出したような低く潰れた声だった。掠れ切った声でそんなことしか言えない男に、胃が沸騰しそうに腹が立つ。  この世でいちばん嫌いで、赦せないほど腹が立つ。  だから、ちゃんと真っ直ぐに伝えてやるんだ。 「なのになんでかなあ。君はどう転んでも赦せない相手で、心底嫌いな人間なのに。俺はどうしても願ってしまうんだよ。君が、誰かを殴って人を傷付けたり、危ない薬に手を出したり、そんな方法を取らなくても幸せになれることを」 「え……」 まるく見開かれた眼と、自分のそれが合う。 「もし、そのために俺が必要なんだったら、俺は君のそばにいてあげるよ。だから。自分のことを赦してない男をいつまでも隣に置いて、君はこれから先もずっと、苦しんだらいいよ――俺は、一緒に苦しんであげるよ」 「羽倉くん……」 ……なんで。  なんで、君が泣くんだよ。 「ありがとう、羽倉くん……好きだ、君が。好きだ」 男の両の眼から溢れる涙は、ただ重みに耐えかねるように、重力に沿うように流れ落ちていた。  受け止められるか、それは本当は分からない。手を伸ばして支えようとした途端に、二人してぼろぼろと、砂の城のように崩れていくのかもしれない。  それでも俺は手を伸ばした。その指に、背中に触れた。 「約束する。だから少しだけ、ほんの少しだけ、待っててほしい」 男は俺の腕の中で、何も訊かずにただ頷いた。  ただその涙の熱だけが、冷たいコンクリートに囲まれた俺たちの肌を繋いでいた。
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