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自分たちのことを子供というのは癪だったけれど、大場くんはおよそ10歳そこそこの子供が見せるものとは思えない残忍さに取り憑かれていた。
普通過ぎて空気だった男が、一体どんな手を使って皆無だったカリスマ性をカバーしたのか、今奴は人が変わったかのように集団の主導権を握っている。
俺を助けてくれる者などもちろんいない。とはいえ別に誰の助けも俺は求めてもいなかった。だいたい、主犯格に嫌われているゆえではなく寧ろ、その捻じ曲がった好意により嫌がらせをされ、殴られるのであり、しかも主犯といじめられっ子、当の本人同士は二人の関係性を周囲に隠し通すための共犯関係でもある、などという薄気味の悪い状況を、どう説明しろというのか。親であれ先生であれ、もしかしたら味方についてくれるかもしれない優しそうな同級生であれ、誰相手にも理解を求めるのは無理がある。そもそも俺自身の頭が理解を拒絶し続けている。
一人で耐えるしかなかったが、俺は一人ではなかった。俺の側につく唯一の人間が、大場くん自身だった。
心から嫌いで、自分に危害を加えてくる存在には間違いないはずなのに。俺はいつの間にか、あいつに依存することでしか生き延びられなくなっていたのだ。
……ああ。痛いな。
後ろ手に回された手首ごと、背中を踏みつけられて教室の床に潰れながらも、意識はあの日の倉庫前に沈んでいる。
あの時言ってた俺をいじめる理由って、半分は合っているんだろうが、たぶん、大場くん本人も自覚していない、もう半分があると最近は思うようになった。
今俺に見えるのは、俺を取り囲む、無数の靴の爪先たち。背中に載る靴、周囲で体側を蹴りつける靴、近くで見ているだけの靴たちだって、顔は見えなくても嗤っているんだって、それは分かる。
でもそんな靴の群れから一歩引いたところに面白くもなさそうに佇んでいる靴が一組あった。その爪先が脈絡もなく、嗤い声の波を引き裂くように俺の方へ真っ直ぐに向き、群れの前へと進み出てきた。
しゃがんで俺に目線を合わせてきた、その顔を見る前から、それが誰のものかなんて分かっていた。顎に指をかけられ無理に上げさせられた視線と、その男の眼がかち合う。
「ねえ羽倉くん」
さっきまで仲間がどんなに盛り上がろうと表情一つ変えなかった眼が、俺に正対して仄暗く濡れ光っている。
周囲を欺くことは、彼の目的の一つの側面でしかない。
いじめる者といじめられる者という構図の中に二人を閉じ込めることで、大場くんは俺を思い通りにできる。絶対的な支配を手に入れられる。
このもう一つの側面にこそ、いつしか彼は至上の悦びを見出していたのだと、当の本人に自覚があったのかどうか、それは知らない。
「脱げよ」
「は……?」
「服。脱げって言ってんの。パンツまで全部」
何の感情も混じっていないかのような、淡々と命令を下すみたいに平坦で冷たい声。いつの間にか俺の背中を踏みつけていた誰かの足はどかされ、さーっと波が引くように、騒がしかった取り巻きたちが口を噤んでいく。
「そんなことできるわけな……」
「は? 空気のくせに逆らうの?」
大場くんの手が俺のシャツの襟を掴んで引っ張り上げる。
「ぅあ……っ!」
喉が締め上げられて呻き声が潰れる。涙のレンズを通した男の口元、その端が持ち上げられた。
この歪み切った笑みを見ているのは、知っているのは、ただ一人俺だけなんだ――
「分かった……わかったっ、から、しめないで……」
「あっそ。じゃ早く」
俺は自分の服のボタンに指を掛ける。震えて上手く動かない。
「何モタモタしてんだよこのノロマ空気!」
「っあ……!」
脱ぎかけのシャツを無理矢理一気に剥ぎ取られ、ズボンも乱雑に下ろされ、俺は下着一枚にさせられた。誰かが殺していた息を呑み込む音が聞こえた。四つん這い状態の身体は、意志に反してふるふると震えた。直接俺を取り囲んでいたのは男ばかりだったが、その脚の隙間から、固まって遠巻きにこちらの様子を窺っていた女子児童たちのそれも見えた。どこからか小さな悲鳴のような声がした。
「羽倉くん。今ここで、シてよ」
「は……?」
自分の言われたことを理解し切る前に、男の手が俺の下着に掛けられていた。
「できるでしょ。お・な・に・い」
熱で頭痛がするほどに、耳の奥がかあっと熱くなった。
「しらなっ、お、俺そんなの知らないっ……!」
「え~そうなの? なら俺がやり方教えてあげよっか」
下着を下ろそうとする、大場くんの指が震えていた。
目が合うと、一瞬、逸らされた。
こいつが嫌いだ。心から。
「お、大場っさすがにそれは……」
蚊の鳴くような声で誰かが言った。
「ん~? そうだね。やっぱやめた、やめた。こんな奴のちんことか触れるわけないじゃん。ばっちい、きもい」
……なんでだよ。なんでさっき君の手、震えてたんだ。裸の俺を突き飛ばして去っていく間際に、無理矢理作ったみたいな苦しそうな笑いなんて浮かべたんだ。
この世でいちばん嫌いな人間のはずなのに。俺はこいつを、可哀想だと思った。
手首を捩って、首を絞めて、顔をぶって、腹を蹴って。そうやって俺を見下ろすこの男の眼は、いつだって苦しげに揺れていた。
俺が、苦しめているんだと思った。
大場くんは、自分のことが嫌いだって言ったよね。
俺も大嫌いだよ、俺のことが。
単に玩具にされていたり嫌われていたわけではない分、ある日突然飽きられていじめが止むということもなかった。結局こんな奇妙極まりない日々を卒業まで過ごした。
好きだって知ってるはずなのに、俺と大場くんが一個の人間どうしとして向き合ったことは最後までただの一度もなかった。
この辺は本当に偶々なんだけど大場くんとは違う中学に行って、それきりだった。中学には大場くんだけじゃなく、同じ小学校だった奴はほとんどいなかったから、俺もごく普通にクラスの輪に入って友達を作る自由はあったと思う。
でもそうしなかった。
俺は誰かと親しくなんてなっちゃ――誰かに好かれちゃいけない。
『君を好きになったのが、間違いだった……!』
あんな一言にずっと囚われていたと言えばそれまでなんだけど、でも確かに、自分に向く好意は間違っていると思った。
だって俺には、好きになるに値する何物かなんて一つもないから。
誰かを苦しめるくらいだったら、誰にも見つからずに生きていこうと思った。
高校に入学したタイミングで学校を休む羽目になったのは、一人でいる理由ができたという意味では都合がよかった。
俺はそんなふうに生きてきたけど、あの男はどうだったんだろう。
再会してもすぐにそうと気付かないほどに、輪郭のぼやけたつまらない男で、何も知らない人間から見たら、その奥底に欲望と狂気が静かに渦巻いていることになど絶対に思い至らない。
彼は空気に戻って、普通の振りをして社会に紛れて生きていたのだろう。
そう思い当たった時に、男のことが余計に哀れに思えた。
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