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紙の匂い、その上に踊る少し滲んだ文字。
理由を付けることで漸く、もう一度開くことができた「銀河鉄道の夜」。
机の上に広げたその物語に入り込もうと俯くと、伸びるままに任せていた横髪が顔にかかるのが鬱陶しくて、図書館の窓から漏れ入る陽がもうだいぶ夏のそれに近付いていることに気付く。
確かにあの時純にこの本を勧めたことに、深い意味はなかった。それでも、いくらでもある日本人作家の作品の中で、敢えてあの一作を選んだということは、俺の、意識よりももっと底のところで、何かあの二人の少年の物語を、純に結びつけていたということかもしれない。
授業のレジュメのために読んでいるのだ。感傷的な感想など書いてもどうしようもないことは分かっている。それでも。
「ほんとうのさいわい」を探し求める夜の列車の旅は、美しいと同時に俺には――どうしようもなく、空しく見える。どうしても、考えてしまう。
二人が出会ったことって、幸せだったのか、と。
出会ってしまったこと、それ自体が、あの物語に這い流れる空しさの根源なのではないかと。
たいそう久し振りに開いたこの物語が、美しさ以外の、暗い影となって押し寄せてきたことに、ページをめくる手が震えて上手く動かなくなった。
もしかしたら。
純は「未完の小説を何度読んでも完結はしないだろ」と、この本を最後まで読まなかったと言っていた。でも本当は――
あいつは、「銀河鉄道の夜」を最後まで読んだんじゃないのか。
(くそっ、純、どこにいるんだよ――)
見えない何かに突き動かされるように、図書館を飛び出して走っていた。今すぐにでも、純に会って、話さなければいけないような気がした。
エスカレーターの流れるスピードを待つ間すら惜しかった。長い階段を、身体が浮き上がるように錯覚するほど滅茶苦茶に駆け下りた。
大学から、その下の通りの道路に降り立つ。息を整えることもなく、ただ足を前へ運ぶ。走りたくても酸素が足りないのか小走り程度にしかならない。それでも、足を止めるという選択肢は浮かばなかった。心臓は喉までせり上がってくるようで、身体が妙にびくついた。
動き続けるゆえの苦しみ、それは自分が生きている人間であるしるしだ。それを半強制的に、思い切り意識させられると同時に。
このまま心臓が爆発して、死んじゃうかもしれないな。
呆れるほどに極端な綱渡りを、しているようで。
でもそんなことを感じられるのは、考えられるのは、自分がちゃんと「戻ってこられる」って、思っているからかもしれない。
傍から見れば「覚束ない」としか言いようがない足取りで無理に身体をしばらく引きずった先、道路の反対側に、純の横顔をみとめたのだ。
「! 純――」
「おいばかやろッ! 危ねえだろ!!」
車道を挟んだ向こう側から飛ぶ声に、はっと「こちら側」に引き戻される。
轟音と共に、大型トラックの車体が視界を埋めて、一瞬の間、純の姿を見えなくする。
俺は、踏みとどまっていた。
行き交う車などに構わず、純の胸に飛び込めば。
そうすれば、俺も「あちら側」に行ける。
でもそうしなかった。自分でちゃんと、そうしないことを俺は選んでいた。
ただ一つ命というものが、どうしようもなく二人を隔てていた。
信号が青に変わってから、俺はなだれ込むように道路の反対側に渡った。
「どうしたんだよ。そんなに慌てて追いかけてきて」
膝に手をついて息を吐く俺を純が見下ろしている。なんとなく、涙が出そうだと思った。
「純は……俺に出会ってよかったって思う?」
「は……」
最近になって気付いた、俺の悪い癖だ。普段はその殆どを自分の中に抱え込んでいるのに、時々言葉が溢れて流れ出て、止められなくなる。
「一人じゃないからねって、だから大丈夫だよって……そんな綺麗事みたいな言葉が通用する関係なんて、本当はそう多くない。一緒にいるだけお互い削り合っていく関係なら、一人でいる方がずっとマシだろ……お前だってそうだったんじゃないのか……!」
「何それ、何だよ……」
「だから! お前にとっては、俺に会ったこと自体が、何よりの不運だったんだろって! そう言ってんだよ!」
こめかみを汗が伝って滑り落ちていった。肌に痛いほどの午後の陽射しの隙間から見上げた純の影が、僅かに揺らめいた。
「そうだな。静生に出会ってさえいなければ、って、思ったよ、何度も。ずっと、思ってたよ」
そう言われると分かっていたことを返されただけ、それだけなのに。走ったせいだけではない苦しさが胸を襲って、俺はがば、と顔を上げた。
「じゃあ……っ!」
「銀河鉄道の夜、さ」
「え……?」
純は午後の金色の陽に目を細めながら空を見上げて言う。通常なら話を逸らされたと思うこの言動が、俺には、その時の俺にだけは、見透かされた、と恐ろしかった。
「子供向けだからかもしれないけど。比喩が必要以上に詳細で、な~んか読むのに疲れたぜ」
「……お前本当は、全部読んだんだろ」
問いに答えず、純はただちょっと唇の端だけで微笑った。
「静生今度、久し振りに高校行こうよ」
「え……でもお前高校って……」
「夜中の学校とか忍び込むの、面白そうじゃん。俺の力があれば、簡単だよ」
「……うん」
「それで星とかさ、見ようよ」
「……うん、そうだな」
星を見よう。これが、俺が純と交わした、たった一度の約束。
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