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 ここはどこだろう。俺の周りには何の景色もない。ただ、薄暗い空間の広がりが続くだけだ。どれほどの広さを持った空間なのか――いや、どこかに終わりが、果てがある場所なのか、それすらも分からない。  今俺がいるこの場所は、現実なのだろうか。もしかしたら、夢とか、そういうものなんじゃないだろうか。  漸く、自分が置かれている状況が少しはっきりしてくる。  床に――コンクリートのようなものでできた地面に、俺は腹ばいになっている。 「……っ」 右腕に相当な重力を感じる。その右手が掴むのは―― (人の手……?――(じゅん)!?) 空間は上にも下にも終わりがなかったが、地面は俺の顎の下で途切れていた。右腕にぶら下がる純を、大慌てで引き揚げようとする。身体を支えていた左手の下の地面が、ボロボロと崩れた。 「う、わああああっ」 体勢を立て直そうとするが、俺の右手にしがみつく純の指は一本、また一本と剥がれていった。 「純――!」 手を伸ばしても、届かない。真下はどこまで続いているかも分からない、闇。最後に触れ合っていた指先が離れる一瞬前、純が微かにその唇を開いた気がした。でも、何を言ったかは、聞き取れなかった。 「純ーーーーーーっ!!」 純の肉体が、ぱっくりと口を開けた暗闇に消え去るまでは一瞬だった。  なんだか、落ち葉が風に攫われるみたいに頼りなかった。あんなに大きくて、寄り掛かってもびくともしない身体だったはずなのに。  その時、目が眩むほどの明るい光が暗がりの中に差した。そして身体の下にあるコンクリートがベッドのシーツに、虚無に広がるだけの空間が部屋の白い壁に変わる。 「なんだ……やっぱり夢」 軽く汗ばんだ身体をベッドの上に起こす。夢でよかったという安堵に、力が抜けていく。顔の前に右手を広げて、5本の指を握り込んでみる。  掴みきれなかった。最後まで。  単なる夢のはずなのに、この手に残る感触は気味が悪いくらいに鮮明だ。  どうして、こんな夢を見たのだろう。  まあ、そんな日もあるか。ひとまず、タオルケットを蹴り飛ばして伸びをする。  窓から覗く9月の朝の空は晴れ、青空の中にぽつりぽつりと、群れることのない気ままな白い雲たちが浮かんでいた。  純が死んだのは、俺がそんな夢を見た、その朝だった。  皆、泣いてる。  まだ夏服の肩が、そこかしこで小さく震えている。  俺は、不思議と涙が出ない。規則正しい経と木魚の音に、人のすすり泣く静かな声が混ざったものは、心地よい揺らぎを脳に伝えて、目を閉じそうにすら なる。 「まだ若いのに……非常階段から転落して即死って……だっていつもは、非常口には鍵がかかってるんでしょ?」 「若いどころか……18歳なんて、まだほんの子供よ……その日は、偶々鍵が故障していて、非常階段に出られる状態だったらしいわよ。でもなんというか……偶然と思えないわよね。事故だってことで処理される方向らしいけど、」 ああ。誰が、話しているんだろう。お経とすすり泣きのさざ波をつんざいて耳に飛び込むのは、 「自殺、だったんじゃないの」  純の遺体が発見されたのは早朝の学校の敷地内だった。後からその時刻を聞けば、俺が悪夢から目覚めた、ちょうどそのタイミングだった。  まだ生徒が登校してくる時間でもなく、幸運なことに(と言っていいのかは分からないが)見つけたのは生徒ではなく与田(よだ)さんという、用務員のおっさんだった。与田さんには申し訳ないが、目撃した人間は一人で済んだわけだ。  本来飛び降りの死体なんて目も当てられないような状態なのだろうが、純が飛んだのは校舎の3階なんていう、身体が潰れずに済むような高さでしかなかったのに、ちょうどよく打ちどころ悪く死んだらしい。だから与田さんも初めはまさか飛び降りなどとはつゆも気付かず、ただ倒れている病人だと思ったらしい。  それが証拠に今、俺は葬式で最後に純の顔を見ることができている。  その顔にはいくつかの傷や痣はあるが、生きてる時と――授業中たまに居眠りしていた時と同じ顔で、純がそこには横たわっていた。 「お前は、うまいこと死んだよ」 棺桶に花を入れながら、ぼそりと口を突いて出た。  あー、おかしい。死んだお前に、真っ先にかける言葉がこれかよ。  誰に聞かれていたわけでもないだろうに、俺は咄嗟に口をつぐんで俯いた。  さよなら、なんて、言う気になれなかった。  生徒が校内で死んだという割には、純の事故は大きな騒ぎにはならなかった。  事件性はほぼないという判断に落ち着いたが、逆に自殺と断定されることもなかった。  純に、自殺に至る動機があるとは思えないからだ。  これは俺の主観でもなんでもない。純は周りの生徒も教員も、誰もが認める、顔は良く、頭も良く、友達は多く(多分女に困ったこともないだろう)、性格も明るい、絵に描いたような健康的な生活をしている生徒だった。  いじめ、人間関係、学業不振……10代の少年が自殺を図りそうな、どんな観点でつついても、その後の調査で純の人生には何らの問題も見つからなかった。その判断に異を唱える者は誰一人いなかった。学校側の隠蔽も何も、隠すような後ろ暗い点など何一つないと周囲の人間全員が納得した。  自殺だとすれば不自然だが、仮に自殺だったとしても、その理由は突発的なものだ。  そう片付けられた。  たったそれだけで、片付けられてしまった。  
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