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ただいま、おかえり
電話からすぐに時は経ち、僕は一伽の住む街に降り立った。ラジオは生番組で、収録後はオフになるように安藤くんが調整してくれていた。
「爽さん、主題歌がヒットして顔も売れてきたんですから、くれぐれもあまり勝手なことはしないで下さいね?」
「うーん、そしたらさ、一人じゃマズいんでちょっとつき合ってほしい所があるんだけど」
「え?いいですけど、どこですか?」
「マンションのモデルルーム」
「はあ⁈⁈」
安藤くんは素っ頓狂な声を上げた。
「何考えてんすか爽さん!」
「あのホテル周辺が気に入ってさ、あの辺りに部屋が欲しいなって思って」
「別荘的な?」
「そう。あのホテルに泊まってから、いい曲がたくさんかけたからさ。それに、どうせあぶく銭なら形に残しておきたくてさ」
「なるほどな~」
レンタカーであのホテル近くのマンションのモデルルームに向かった。調べてみたら、ちょうど建築中のものがあったのだ。
「爽さん、庶民的すぎやしませんか?」
「いいよ、別に曲作るだけだし」
「壁は厚くしないとダメですね」
「それができるか訊いてみよう」
僕はマスクをして行ったけれど、しばらくして案内をする人が見城爽だと気付いたようだった。
「あの、もしかして……見城さん、ですか?」
僕は自分が思うよりも顔が売れてしまっていた。困ったな。
安藤くんが間に入った。
「そうなんです、この辺りの風景が気に入って、たまに来て作曲する時に使う部屋が欲しいと。防音のオプションとか今なら付けられますかね?」
「結構音を出されますか?」
「ですね」
うーん、とその人は悩み、あ!と何かひらめいたようだった。
「防音とプライバシーの確保が必要でしたら、ここでは無くて、いい物件があります!」
モデルルームスタッフの人は突然電話をかけ始め、案内の者が参りますので、しばらくモデルルーム内をご覧ください、と言った。
その後僕らは、別のスタッフに車に乗せられ、半島の中を走った。
「その建物は、画家の方が持っておられた物件なんですが、ごく最近手放されたんです」
海岸沿いで少し高台にあるその物件は、コンクリートで建てられていて、窓は海岸側にのみ開かれていた。
「道路側にはほとんど窓がありません。採光は海側と天井からだけですが、見てください、これだけ大きい窓なんです」
目の前の海がすべて拓けて見えるくらいの大きな窓。水平線が美しくきらめく。
「主要道路にもアクセスがいいですし、プライバシーは保てるし、おまけにコンクリート建てなので防音も問題ありません」
中も見てみたが、僕はとても気に入った。リビングに、ダイニングに部屋が四つ。あ、この部屋は改造すればスタジオ代わりに使えそうだ。聞けばアトリエだったという。価格も東京の住宅からすれば破格だった。
「明日、また見に来てもいいでしょうか」
「はい、是非とも今日とは違う時間でご覧ください」
「じゃあお昼までに連絡します」
安藤くんは僕をホテルに送りながら言った。
「あんなに大きな家、要ります?」
「要らなかったら売ればいいし、その時考えるよ。もう一度見てみる」
「焦って掴まされないようにしてくださいよ?」
「ありがとう安藤さん」
僕は安藤くんに手を振って、ホテルのロビーに向かった。
チェックインした後、荷物を置いて、海に向かった。一伽は退勤時間だろうか?シフトも知らない。海岸沿いの道を歩いていると、向こうから少年が自転車で走って来る。背中に背負っているのは……ギターかベースのソフトケースだろう、その子の頭の後ろからギターの頭部と思われる形状が見えた。
バンドか今から習いに行ってるのかな。それにしても小さい子なのに……。
急いでいる自転車は、近づいてきて、すぐに僕の横を通り過ぎた。
「リョウくん……?」
僕は呟いてすぐさま叫んだ。
「リョウくん!」
自転車が停まったが、彼は知らない男から呼び止められて驚いた顔をしている。
「こんにちは、昔山道でお母さんとリョウくんと会ったおじさんだけど、覚えてる?」
リョウくんは首を傾げる。僕も髪型が変わっているからわからないかな。
「お母さんが枯葉が目に入って泣いちゃったんだ」
「ああ! あの時のおじさん!」
「そう。リョウくんは楽器してるの?これはギター?」
「うん、今から習いに行く」
蛙の子は蛙だな。きっと一伽はギターや父親のフィリップのことなど教えてもいないだろうに。
「おじさんも音楽やってるんだ。よく弾くのはピアノとかキーボードだけど」
「そうなの?」
リョウくんの目がキラリと光った。
「そうだよ。音楽は楽しい?」
「うん! 楽しい! 大好き! キーボードも欲しいけど、お母さんが無理だって言うからギター頑張ってる。弾きたくなったら教室のオルガンとかピアニカ弾いてるんだ!」
「そうか、頑張れよ。またいつか会うかもな。気を付けてな」
「うん、おじさんまたね!」
リョウくんは、音楽が大好きだとひまわりのような笑顔で言って、再び自転車で走っていった。
誰も教えていなくても、音楽が好きで楽器が弾きたいだなんて遺伝子なのかな。一伽がたくさん音楽を聴く人だろうから、そこから興味を持ったにしても。
小さくなっていく、背中に背負われたギターの形を見ながら、僕は切なくなった。入門者用のギターだって数万する。アンプだってシールドだって必要だ。
どういう気持ちで、キーボードは我慢して、と君は子供に言ったんだろうか。
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