凪いだ海と小高い山

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凪いだ海と小高い山

手に唇に一伽の感触が残っている。 たった今さっきまで触れていた、その感触を思い出すだけで僕は身体が震えた。 シャワーを浴びて頭を冷やそう。 ライブを集中してやって、身体も頭もクタクタに疲れているはずなのに、僕は頭の中が冴え冴えとしていた。カランを捻って温水を出す。 よく考えてみたら、僕は君のことをほとんど何も知らない。 岡野一伽という名前と、このホテルで働いていることと、小学生の子供がいて、母親に助けてもらいながら育てていること、夫はいないこと。 その暮らしの背景を考えていくと、到底僕たちには接点が無いように思えた。 今拠点にしている東京に身体を重ねる相手がいないわけじゃない。 今は二人いる。それぞれお互いに割り切った関係。 でも何度も身体を重ねた彼女たちの顔も思い出せないくらい、僕は昨日出会ってから一伽のことばかり考えている。 僕も彼女が言っていたフィリップ・ヤンと同じなんだろうな。 身体を重ねたいけれど、責任なんて取る気はないのだ。少なくとも今付き合いのある二人の子に対してはそうだった。 冷静に考えてみれば、続けられる関係じゃない。続けたいなら、彼女と子供の人生を丸ごと抱える覚悟が必要だ。 僕は誰かと一伽の子供を大切にできるのか? 「……馬鹿馬鹿しい」 あり得ない話だ。僕は何を考えているんだろう。 シャワーを出て、カーテンを閉めていない大きな窓を見た。窓の向こう側には月の光を少しだけ反射した暗い海が見える。窓には部屋の照明に照らされた、濡れた髪の疲れた顔の男が映っていた。 翌朝、僕は海辺を散歩した。朝と言っても九時は回っていたから、もう一伽は仕事を上がって退勤しただろう。 一伽は、多分、今日も明日も来ない。 子供のいる大人の女性が、分別の無い選択をするとは考えにくい。ましてや自分の職場で。 冷静に頭の中でそう結論付けた。 なのに、身体は一伽の感触を勝手に思い出して彼女を欲しがる。 躾のなっていない犬をなだめるように、僕は自分の身体に言った。 「忘れなくてもいいけど、そんなに必死に思い出すなよ……」 僕は情けなくなった。 頭では理解しているのに、フィリップ・ヤンとはどこまでやったんだなんて思ってしまう自分に。 そんなことを言える立場でも関係でもない。彼女からすれば、同じことをしたがるミュージシャンの一人に成り下がってしまったのに。 僕は、あの唇と舌の感触が引き出す快感と引き換えに、僕の音楽を理解してくれる貴重で大切なファンを失くしてしまったんだ。 湾の内側の海は凪いでいて、水平線の向こうまで太陽光で海面がキラキラと踊るように揺らめいていた。 いつも君はこの海を見てるんだね。出勤と退勤の時だけかもしれないけど。 君は子供とこの海に遊びに来ることはあるんだろうか。 僕もこの海の風景を目に焼き付けておこう。 君が見た海。 一緒には見られなかったけど、君がこれからも見ることのある海を。 それから僕は客室に戻り、ノートパソコンとキーボードを出して繋いだ。 僕にできることはこれしかない。 扉の外のドアノブにDon't Disturbのプレートを引っ掛けて、曲を作り始めた。 これから作る曲は、一伽に向けて作ろう。 彼女への僕の気持ちが消えてしまうまで。 ”お疲れ様!もう東京帰ってきた?” 身体を重ねる子の一人がメッセージを送って来た。 ツアーの時に、この子が何気なく送ってきてくれるこういうメッセージが好きだった。 彼女は僕がミュージシャンとは知らずに僕と知り合った。 後からCD出してるの⁈あのドラマの歌は爽くんだったの?と知って驚いていた。それでも彼女は僕への態度が変わらなかった。 だからいいと思ったんだと思う。 おそらく、この子は僕がはっきりと口にすれば彼女になる子だ。けれどズルい僕はこういう仕事だから堂々と彼女は作れないんだ、と言って曖昧な関係を続けている。 ”いや、まだだよ” いつもなら何日には帰る、と書くけれど、今回はそれをしたくなかった。書けばこの子は健気に僕の部屋にやって来て、僕に抱かれて帰るから。 今はまだ、僕は一伽以外の誰かに触れたいと思わない。 ”ほら! 髪の色アッシュにしたんだー! どうかな?” 彼女は自撮りの写真を送って来た。肩に着く長さと髪の色がよく似合っている。 ”似合ってる” ”よかったー! お菓子のおみやげ待ってるね!” 僕よりも十歳近く若い子。結婚して子供が欲しいなら適齢期だ。 それでも僕はこの子を食い潰すだろう。可愛らしくて従順なこの子の時間も身体も。責任なんて一つも取らずに。 僕は……それがいくらか許される職業の……ミュージシャンだから。
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