凪いだ海と小高い山

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その日の早い夕方、このホテルのある地域を歩いてみた。 海もあるけれど、半島のように突き出しているここは、すぐ後ろに小高い山がある。 海も山もあってのんびりできる場所。そして少し車で走れば市街地だ。贅沢なところだな。もちろん民家もマンションもちらほらあって人も住んでいる。 山のほうに歩いていくと、木々の間の舗装された道路が散歩道になっていて、僕は森林浴に興じた。 気持ちいいな。空気が美味しい。 すれ違う人とこんにちは、と挨拶しながら通り過ぎるのも爽やかな気持ちになる。 杉が多いけれど、自然林なのだろう、様々な木々が生えている。 ある程度上ったのか、下り坂になってきた。また向こうから人が歩いてきた。 親子連れか、と確認した瞬間、僕は身体が冷たくなり、次の瞬間燃えるほど熱くなるのを感じた。 「どうして、一伽……」 何故君は、僕が思いもよらない場所に現れるんだ。もう会わないと思って、君への想いをどうにかして鎮めていたのに。 立ち止まっている男を訝しく思ったのか、確認するように一伽が僕を見た。 遠いけれど、まだ表情ははっきりと見えないけれど目が合ったのが分かった。 僕はゆっくりと歩きだした。一伽の方へ。 一伽は子供と何か話していたけれど、諦めたようにこちらに向かって歩いてきた。 「こんにちは」 「こんにちはー!」 「こんにちは」 すれ違う時、僕らと一緒に子供も元気よく挨拶した。小学五年生と言っていたな。 一伽によく似ている。 男の子は木の棒を持って枯葉をつついては何か探しているようだった。 「いち……お、岡野さん、」 振り向いて僕は一伽を引き留めた。君一人だったら、今すぐここで抱きしめるのに。山の中の散歩道は、僕らの他に誰もいない。 「……はい」 一伽が振り向いて見せたその表情は。今にも泣きだしそうだった。子供は誰だろう?という風に僕を見ている。 大丈夫だよ、子供の前で君に何もしないから、話をさせてくれ。 「先日は、お世話になりました」 「いえ、こちらこそ……」 僕らは頭を下げ合った。 子供の前で、当たり障りのない会話しかできるわけはなかった。 これで君と話すのも最後なのか、最後がこんな会話になるなんて。 「……リョウ、お仕事の話するから、少し先まで探してていいよ。あまり行き過ぎないでね」 「うん、わかった」 リョウ、という一伽の子供は目を輝かせて枯葉の中の何かを探索に向かった。 「……ほんとにお母さんなんだな」 「そうよ」 ぎこちなく一伽は笑ってみせた。 「部屋には来てくれないの?」 まだ僕は食い下がるんだな。自分で言った言葉に自分で呆れ驚いていた。 「……仕事を失いたくないもの。ありがとう、いい思い出にします」 一伽は一礼して立ち去ろうとする。 僕は反射的に彼女の腕を掴んで引き留めた。 「……一伽、僕と一緒になれないか? おいでよ僕の所に」 自分が頭で考えていることとは別のことを、僕の口は勝手に喋った。 「何を言ってるの? 私はここに住んで子供を育ててるの! 馬鹿にするのもいい加減にしてよ」 「馬鹿になんてしてない、好きなんだ」 「会ったばかりの何も知らない相手に一緒になろうだなんて、馬鹿にする以外の何があるって言うのよ!」 「知ってる」 僕の手を振り解こうと暴れる一伽を抱きしめて唇を塞いだ。 さらさらと木々の葉が風でこすれ合い音を奏でる。 彼女の唇は最初から僕のためにあったみたいに柔らかく僕のそれに沿う。 「好きだ、一伽……」 僕はこの人を離したくないということは知っている。きっと彼女が僕を嫌いじゃないということも。 「爽さん、お願い、やめて……」 バーにいた時みたいに、爽くん、とはもう呼んでくれないんだな。 僕は一伽の腕を両手で掴んだまま、ゆっくりと身体を引き離した。やっと僕の名前を呼んでくれたのに、その後に続いたのは拒絶の言葉だった。 「一伽、待ってる」 「待たないで」 「一伽が、来るまで待ってる。これからずっと待ってるよ」 「客室には行かないし、私は子供の為に生きてるから……」 「なら子供が手を離れるまで待ってる」 「あと何年あると思ってるの?」 「僕が待ちたいんだ」 「ダメ……」 泣かせるつもりなんてないのに。僕は何度も一伽の涙を親指で拭った。 本当はあんなに自由に音楽に乗せて身体を揺らす人なのに。こんなに自分を抑えてすべて投げうって暮らしている。 これから一人で子供を育てていく彼女にどれだけの苦労が積み重なることだろう。 「一伽……何でもいいんだ、俺に何かできることはない?」 黙って一伽は横に首を振った。 「電話番号も変えないよ。変える時は連絡する。だからいつでも……遠慮なく連絡して。僕にできることがあるなら何だってやるから」 ゴウ、と強く風が吹いて、枯葉が舞い上がった。 「かあさーん!」 一伽の息子のリョウが走って戻って来た。僕は慌てて彼女の腕から手を離した。 「母さん⁈ どうしたの?」 泣いている母親を見て少年はキッと僕を睨んだ。その反応で正解だ。 君がお母さんを守ってくれ。 「違うのよリョウ、風で飛んだ枯葉が目に入ってね、涙が出ただけなの」 「ほんと?」 少年は心配そうに母親の顔を覗きこみ、彼女の服の裾を掴んだ。 四、五年すればこの少年も一伽の背を追い越して、いつしか立派な青年になるだろう。その時に僕は一伽を迎えに行きたいと思うだろうか? 客観的に考えれば、とても無理な未来に思えたけれど、僕は今はそれを信じたかった。 「……どうか岡野さん、お気をつけて。また連絡をさせていただきます」 「見城さんもお元気で……」 お元気で。 それが一伽が僕に言った最後の言葉だった。
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