フィリップの手

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フィリップの手

僕はしたたか酔ってホテルに帰った。 「お客さん、着きましたよ。降りれますか?」 タクシーの運転手から心配されるくらいに。 「大丈夫です。ありがとうございます……」 クレジットカードで支払い、ロビーから客室に入った。 一伽がどれだけ辛い思いをして生きてきたのか。髪の毛一筋ほども僕は理解していなかった。 部屋に戻り、便器に頭を突っ込んで、さっき飲んだものを戻しながら思った。 僕は最低だ。 僕自身は気持ちを伝えたと満足しているが、彼女は僕が待ち続けると言ったせいで、負わなくていい心の負担を負うことになった。 気を持たせるなんて最低だ。 何が、いつでも連絡して、だよ。 一伽は、自分からはメッセージ一つ送ってきてくれたことはなかったのに。 酔った頭で、一伽へメッセージを送ろうとスマホアプリを開いたけれど、何を書いても彼女には嘘にしか聞こえないだろう。 一つだけ本当のことを書こう。 ”次の曲は、あなたを想って書いてます” 紙飛行機のマークをタップした後、僕は気を失うように寝落ちた。 ホテルをチェックアウトする時に、ロビーを横切る制服の一伽を見掛けたけれど、声は掛けなかった。 僕にはそんな資格はない。 またフロントに竹内さんがいた。 「見城様、ご滞在いかがでしたか?」 「とてもリフレッシュ出来ました。ああ、初日に金庫のことで岡野さんにはお世話になったので、よろしくお伝えください」 一伽からすれば傷を深めただけの僕の滞在。でもありがとうと伝えたかった。 「岡野ですね。申し伝えておきます。またご利用くださいませ。ありがとうございます」 竹内さんはホテルマンらしくうやうやしく頭を下げた。 タクシーの中から、空港までの道のりをぼんやりと眺める。 忘れた方がいい。一伽のことは。 彼女をこの数日であれだけ傷つけて、そんな男を誰が好きになるだろう。 ハトさんが言ったように、ツアーのいい思い出として処理した方がいいんだ。 今思っていることも感じたものも全て曲にすればいい。 僕はそれが仕事だ。 「爽くん、おかえりー!」 アッシュヘアーを揺らして、彼女は僕に抱きついた。 「お疲れ様。疲れたでしょ?」 「ああ、少しね。お土産買ってきたよ」 馴染みの顔と声、身体の感触。 なのに、僕は一伽に会う前とは全く変わってしまったことに気付いた。 「やった!開けてみていい?」 子供のようにはしゃいでいるけれど、彼女はおそらく、一伽がフィリップ・ヤンに抱かれた頃くらいの年齢だ。今の年齢になるまで、どれだけのことを一伽は乗り越えてきたんだろう、一人で。 「わー!このお菓子食べてみたかったんだー!」 僕はお菓子をほおばる彼女を後ろから抱きしめた。 「どうしたの爽ちゃん? したくなった?」 「……うん」 「私も。待ってたよ。寂しかった……」 彼女の唇は今食べたばかりのお菓子の甘い味がする。 きっと彼女を抱いたらいつもの僕に戻る。何度も抱いている女に彼女になってとか結婚しようとは絶対に言わない、ズルいシンガーソングライターの男に。 いつも通りに彼女の肌を辿り、声を上げさせる。 僕が好きな声をたくさん上げているはずなのに、目の前の彼女に夢中になれない。 「爽くん、お疲れだね」 手短に済ませたのがわかったのか、彼女は労わるように僕に言った。 「またゆっくりしような。明日からまた仕事だからさ」 「うん。じゃあ今日は、帰るね」 聞き分けの良い彼女にたっぷりとキスをする。 でもどれだけ時間をかけても、一伽と交わしたキスのように身体が震えることはなかった。 彼女が吐息を漏らして僕を潤んだ目で見上げる。 でも僕は彼女に好きだとは言わない。初対面の一伽には好きだと何度も言ったし、一緒になれないかとまで言ったのに。 「送るよ」 「ううん。爽くん疲れてるから……」 彼女は身支度を整えると、またくるね、おやすみ、と手を振って帰った。 あれは何だったんだろう。一伽とのキスは。 全部が溶けてしまいそうな、あの感覚。 手の甲で口を拭うと、フラッシュバックのようにあの時の感覚が蘇った。 キスだってセックスだって、誰としたって同じようなものだと思っていたのに。 今さっき僕は彼女と身体を重ねたのに、思い出すのは一伽のことばかりだった。 たった三度のキスで、忘れられなくなる人がいるなんて、そんな人に出会うことがあるなんて、自分の人生の予定にはなかった。 「一伽……!」 どうして僕は泣いているんだろう。 泣くようなことなどどこにもないはずなのに。 僕はツアーに行って、帰って来ただけだ。なのに彼女のことを想うと涙が止まらない。 たった二日だけ、偶然会った人。 涙を拭いながら僕は風呂に入った。 申し訳ないけれど、今さっき抱いた彼女の匂いがついているのが耐えられなかったから。 湯船に浸かって、ハトさんのバーで二人で何を話したのかを思い出してみる。 僕が名前を訊いた時に、自分の名前が好きじゃないと言った彼女。どうしてそう言ったのか今なら理由が分かる。 名前の通りに一晩だけフィリップ・ヤンと夜伽して、身籠った自分を嘆いて彼女は生きているのだろう。息子を見るたびにフィリップを思い出しながら、自分を傷つけているんだ。毎日、毎日。 それが愚かなことをした自分への罰だとでもいうように。 そのままずっと彼女は生きていくのだろうか。そして地元で父親にするのに適格な男が見つかったら、結婚するのだろうか。 そして、僕は、一伽のいない人生をこれからずっと、生きていく……。 「……っ、う、……」 何度も湯船の湯で顔を洗った。洗っても洗っても僕の目からは涙が溢れて、忘れるどころか一伽の面影が心の中で濃くなっていくばかりだった。
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