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忘れられない観客
ベッドの中から抜け出した彼女が言ったのは、シンプルな一言だった。
「別れよう、私たち」
僕は理解が出来なくて、もう一度確認した。
「は?何言ってんの、今シたばっかりで何でそんなこと……」
彼女は僕の言葉に被せて言った。
「爽くんのこと嫌いじゃないけど、爽くんが一番好きなのは音楽でしょ」
「音楽とお前一緒にするなよ」
僕は鼻で笑ってみせた。
「私、一番がいいんだ。それに……」
アッシュカラーにした肩につきそうな髪を揺らして彼女は言った。
「爽くんが書いてる歌詞に、一度も私出てこなかったよ、ね?」
ニッコリ笑うと、ワンピースをスルリと被って、ストッキングをバッグに丸めて入れると、素足のまま彼女は僕の部屋を出て行った。
「……あーー、バレてたか……」
こんな風な理由で振られるのも何度目だろう。
女の人は鋭い。
別の女のことを歌にしてるって、わかるもんなんだな。
――僕はあの日から、ただ一人の人だけに向けて曲を作り歌っている。
僕はずっとスタジオミュージシャンをしながら、デビューの機会をうかがっていた、デビューして自分の音楽をやりたいたくさんの中の一人だった。
その仕事だけで食べていけないからバイトをして、空いてる時間には曲を作って。倒れる寸前になった時に、ある事務所から声が掛かった。
「あなたがインディーズで出したアルバムを聴きました。あなたは音楽だけをやっていた方がいい。うちの事務所に来ませんか?」
やっとメジャーデビューの話が来た時、僕は30歳になる寸前だった。
それから、ボチボチやらせてもらっている。
いい歳だし、華やかさも求められていないし、好きにやれという方針の事務所なので、割合自由にやらせてもらっているし、ドラマのタイアップなどの仕事ももらって、そこそこ順調だ。
アルバムを出した後にツアーをするけれど、ある地方の公演で、すごく目立った女の人がいた。正直僕のファンは女の子は地味な子が多い。男は幅広いんだけど。
そんな中で前方の席の真ん中あたりですごく自由に踊ってる人がいて、別にその人は見た目が派手派手しいわけじゃないんだけど、リアクションが大きくて、人と違っててひときわ目立っていた。
何ていうか、そこだけ外国みたいな。その人はそういう自由な感じがした。
ああいう子もいるんだ。
僕のライブ楽しんでくれてる。
良かった。
また次のも来てくれたらいいけど。
そう思うくらいには気になったお客さんだった。
けれど、それ以来一度もライブでは見ていなかった。そもそも後ろの席だったらわかりようがないんだから、そんなことを考えること自体が馬鹿馬鹿しいんだけど。
それから二年ほど経って、僕はまたライブツアーで地方を回った。
前乗りしてライブ前日、とある街の音楽を流すバーに行った。そこは地方でも業界関係者に知られたバーで、ミュージシャンはこの街でライブするとこの店に来ることも多い。ここのマスターは僕の音楽を理解してくれていて、この街に来た時は必ず行くようにしていた。
早めに行って、ホテルに帰って寝よう。エレベータに乗って、降りるとすぐに見えるオレンジ色の扉を開けた。
「ハトさん! マスター、お久しぶりっす」
「お! 爽ちゃん! よく来たな!」
カウンターに肘をついてマスターと話していた女性が、僕の方に振り向いた。
あ、この人、あの時の踊ってた子だ……。髪切ってるけど多分そうだ。
僕がライブした街とここはだいぶ離れてるのに、どうしてこの街に……?
マスターとは毎回同じやり取りをしているのに、僕はうわの空になった。
「爽くん? え? うそ……!」
その人は小さく悲鳴を上げた。まだ開店して一時間も経っていなくて、店はマスターとその人しかいない。
「良かったなイチカ、爽と会えるなんて。爽ちゃん、こっち座って!」
その子の隣の席に僕は座った。僕のファンなんだから、僕は堂々としていたらいいはずなのに、何故か僕の胸の鼓動はいつもよりもうるさかった。
「えーっ! ハトさん緊張するからダメ!」
「いいじゃんよ、他にお客いないし、今のうちに話してもらっとけ。な、爽ちゃん」
その人はマスターにバタバタしながら言った。別に僕はイケメンでも何でもない。なのにそんな風に素直にファンらしく反応してくれるその人を可愛いと思った。
少し茶色い髪のショートボブに、緩やかなウエーブがかかっている。
いくつぐらいだろう。僕と同じくらいかな。もしかしたら年下かも。
「あの……すみませんうるさくして。爽さんのファンなので、緊張しちゃって」
おずおずとこちらを向いて、彼女はちょこんと頭を下げた。
何だか、動きが小動物みたいだな。
可愛い。
触りたくなる。
「飲み物何にしましょう?」
ハトさんが笑顔でオーダーを取ってきた。
あれ、僕は今何を考えた? 僕は他のミュージシャンみたいに、その街のファンを食って捨てるなんてことは絶対やらないのに。
「お名前は?」
「イチカ、です」
「漢字はどんなの書くの?」
「数字の一にお伽話の伽、です。あんまり好きじゃなくて」
そう言ってカルアミルクを一口飲んで、一伽は笑った。笑うとえくぼが右の頬に浮かぶ。
「どうして?」
「えー? 漢字が酷すぎるもん。そういえば爽さん、こないだのアルバムすごい良かったです!」
一伽は話題を変えた。でも僕はこの人を知りたくなっている。
「ありがとう。そうだ、二年くらい前のライブに来てくれてた? 大阪の」
「Runningツアーですか?」
「そうそう。一伽さん、前の方の席の真ん中にいたでしょ、このぐらい髪の長さで」
僕は肩から少し下の辺りに手を水平にして示してみせた。
「……はい……」
「すーごい自由に踊ってたから、ずっと覚えてたんだ」
「うそーーーー!! 恥ずかしい!」
彼女の大声に、マスターが何事かと厨房から笑顔で顔を出した。
「どうした⁈」
「爽くんが、私のこと、ライブの時見てたって」
「客席の?」
ハトさんと目が合った僕はうなずいた。
「すごく楽しそうに踊ってくれてたから印象に残ってて」
「そりゃすごいな、どんな風に踊ってたんだよ!」
ハトさんは大笑いしながら、出来立てのつまみを出してくれた。
「ってかわざわざ大阪に行ったんだな、イチカ」
ハトさんが一伽に確認した。そう、僕は彼女がどこに住んでいるのかを知りたい。
「そうなんです。あのツアーはこの街には来なかったから。いっつも爽くんがこの街に来る時には都合がつかなくて」
「じゃあ、わざわざこの街から大阪まで来てくれたの?」
「はい、あのアルバム大好きで、ライブ絶対に見たいって思ったから」
「ありがとう」
あの時出したアルバムは、時流に無理に合わせることを止めて、自分がやりたい音楽をやろう、と決めた最初のアルバムだった。とても良かったと業界からもファンからも感想をもらった。
僕はあのアルバムで評価が定まったように思う。
「あのアルバムは転機になったから、好きなアルバムだと言ってくれると本当に嬉しい」
「はい!ボーカルも音作りも全部素敵でした!」
その後、僕の曲の感想や、ハトさんを交えて誰それの曲がどうとか、ここがいいとか何だとか、音楽談議が盛り上がった。
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