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金曜日の朝、起きてリビングに行くと、兄はもう食卓にいた。
母が料理を机に出す。そうして直ぐに彼女はリビングを出てしまった。これは別に、母が兄を嫌っているわけではない。私の兄には、少し事情がある。
「おはよう、兄さん」
兄は挨拶を返してくれた。二人で、食卓を囲む。
朝食を終えると、彼は部屋に戻ってしまった。おそらく、今日も一日部屋にいるのだろう。
兄は、女性恐怖症だ。家族である母親にさえ、口を聞くのはおろか、見ただけで涙を流してその場で膝を抱えてしまうほど重症である。
原因はわからない。本人も、それについて何も語りたがらない。主治医の先生にすら何も話していないらしい。そのため、誰も真実を知る由も無い。
現在、彼は共学の高校に在籍している。父から男子校への転入を提案されていたが、女教師が怖いとのこと。それほどまで女性に恐怖を抱いている彼だが、妹である私とは会話ができるのである。
病は鎖となって、彼をどこにも行けないようにしている。日々、どうにか彼が女性と会話できるよう、私は手を尽くした。それでも、全て失敗に終わった。十歳というのは、幼過ぎたのだろうか。
その日の晩、私は強硬手段に出ることにした。
兄の部屋のドアをノックする。返事が来たため、私は部屋に入った。午後十一時、彼はもう床に就こうとしていた。
「兄さん。今日一緒に寝ていい?」
私は尋ねた。兄は少したじろった後、許可を出した。
オレンジ色の薄い照明に変えて、私達は布団に潜る。兄は、真っ暗な部屋では眠れないのだ。
彼はふと、何故私とは話せるのか、と口にした。そろそろ、頃合いかもしれない。私はパジャマを脱ぎ、そのまま下着も外した。
少し驚いた後、兄は納得したような顔をした。
僕は、女として育てられた。本当の母は、女の子が欲しかったのだが、男である僕が生まれてしまった。それで実の母は、僕に女の子の服を着せ、髪も長く伸ばさせたのだ。
その家庭環境を見た実の父の会社の同僚であった今の父が、僕を引き取った。もともと、実の父は実の母の方針に気に食わなかったらしい。そして、それを止められなかった自分は、僕の前から消えたほうがいいという判断を下したそうだ。
そんな経緯があって、二年前、この家に引き取られたのだ。僕はこの家に来て、幸せだ。新しい両親も、兄も温かい。血は繋がってないけれど、実の子供のように扱ってくれる。
それでも、悩みは二つある。兄のこと以外にもう一つ、それは、女の子の格好がやめられない、ということだ。習慣として根付いたものは、たとえそれを嫌悪していたとしても、体に纏わりついている。だから、ありのままの姿を兄に見てもらうことにした。
僕の唇を、兄はそっと塞いだ。
翌日の朝、僕たちは一緒に食卓に降りた。料理をしている母に、僕は挨拶をする。その後のことだった。
「母さん……、おはよう」
母は手に持っている食器を落とした。床に落ちたそれは、音を立てて割れる。
その場で母は、膝を抱えた。幾つもの大きな涙が、彼女の頬を伝っていた。
僕も、今日を境に女の子の格好をやめることにした。昔の兄の服を借りて、美容室に行く。長かった髪を、バッサリ切ってもらうんだ。
またその晩も、僕は兄と寝た。兄は温かい。優しく抱いてくれた。
やがてまどろみに誘われ、眠りに落ちる。
夢を見た。一人の少年が勇気を出してある女子に告白した。しかし、それは受け入れられなかった。次の日、その告白のことがクラス中に知れ渡り、彼は笑われた。
この少年は、夢中で傷ついた。そして、大きな跡を残されたのだろう。その後は残酷で、眩しい。強すぎる苦しい光は、忘れることなどできない。
だけど、僕には分かる。彼は今きっと、幸せだ。
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