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18.災厄への片道切符 One-way ticket to Disaster
十二月二十三日。私の元に、菅野が倒れたと連絡が入った。とある客の施術をしている最中に、尋常ではないほどの腹痛に襲われ、そのまま病院へ担ぎ込まれたのだという。
亀戸のエステを訪れた際に懇意になった彼女のマネージャーが、直接連絡をくれたのだ。仕事終わりに江東区の大病院へ見舞いに行くと、病室のベッドの上にいた菅野は元気そうだった。
「大丈夫ですか?」
「なんとか。あまりにも痛かったから、もうホンマに死ぬかと思うたがな」
病名は膵炎。幸いにも症状は軽く、特に脱水状態などを引き起こしているわけでもない。
「せやけど、二週間くらい入院が必要みたいやって・・・・・」
菅野には申し訳ないが、殺人計画を中止させるきっかけができた。病室には医師、看護師がひっきりなしに出入りする。そのような環境では、犯罪の相談などできるわけもないだろう。
そうして時間が流れていくうちに、自然と話が立ち消えになればいい――。
そんなことを考えていた。しかし、本人には言えない。私のせいで誰かが死ぬより、計画の中止を訴えて、菅野に嫌われる事の方が怖かった。
「そっか。ゆっくり治してくださいね」
「ゆっくりなんて、できんわ。仕事が心配で夜も眠れん。ただでさえ、年末は忙しいんやで? もう最悪の極みや」
彼女は事業の状況をひどく気にしていた。日本に来て二十年近くになるが、仕事を休んだのは初めてらしい。地震や台風が直撃した日も可能な限り店を開け、自らの体調が悪い日も市販薬を服用し、半ば無理をして店に立ってきた女性だ。
菅野の表情は「心配」というよりも、仕事を休まざるを得なくなった自分への「怒り」に満ちている。自分に厳しい彼女なら、無理もないだろうなと思った。
「大丈夫だよ。菅野さんのところのスタッフは優秀だから。ちゃんとやってくれると思うよ」
「そうなら、いいんやけどねぇ……」
病院を出た後は、まっすぐ職場へと戻った。世間はクリスマス一色だが、私達の業界には関係ない。
季節を問わずに事件や事故は起こるし、著名人のスキャンダルも浮上する。それらの第一報が入った時点で現場に駆け付けられるよう、週刊新星ではオフィスに常時何人かの記者が、交代で待機することになっているのだ。
事が起これば即座に反応して追いかけるのが業界の鉄則だ。職場のビルに着いたのは夕方の16時。辺りを見わたせば、部屋の中が閑散としている。社会班の面々は殆どが出払っているようだった。
私は、ドアの近くにいた後輩に尋ねた。
「古市さん、なんか人が少ないけど。みんなどこに行ったか分かる?」
「お疲れ様です。さっきタレコミがあって、現職の国会議員が逮捕されるみたいですよ」
「え? なにそれ。聞いてないんだけど」
私が菅野の見舞いに行っていた間、編集部宛てに匿名の情報提供があったらしいのだ。
「詳しい事は分からないんですけど、鴨川の再開発計画に絡んだ汚職らしいです」
「鴨川って……千葉?」
「はい。何でも、業者を選ぶ段階で不正なカネの流れがあったんだとか。実際に工事に携わった業者が、三百万円で、県内の代議士に口利きを依頼したそうです」
「収賄か。あれ、その代議士って……」
「千葉一区の太田聡子だったはずです。霧島先輩、それがどうかしましたか?」
太田の醜聞については、色々と頭の中にあったが、その件に関しては初耳だった。当該地区の再開発に太田が関わっていたこと自体、全く知らなかった。
「別に。っていうか、相手が国会議員なら政治班の獲物じゃない? どうして、社会班まで出払ってるの?」
「ああ、それなんですけどね。今回、捕まるのは太田議員だけじゃないんですよ。工事を担ったゼネコンはもちろん、業者と議員を繋いだ暴力団幹部にも、逮捕状が出されるみたいです。組織犯罪はうちらの担当ですからね」
「だから、社会班もほぼ総出で裏取りに行ってるわけね」
それから数時間後、週刊新星が運営するニュースサイトには『平成二十八年の千葉県鴨川市の再開発工事において、ゼネコン大手『清中建設』が関係者に参入の口利きを現金三百万円で依頼していたとされる事件で、千葉県警刑事部捜査三課は二十三日、収賄容疑で△△党衆院議員・太田聡子容疑者を収賄容疑で、清中建設元役員の男二人を贈賄容疑でそれぞれ逮捕』との文面が躍った。
しかし最初に伝えたのは我々ではなく、全国紙だった。抜かれてしまったのだ。
ただ、これに関してはオフィスで留守番を命じられた私には分からない事情があるらしい。深夜、編集長の大山が嘆いていた。
「ったく……余計なネタまで掴ませやがって。太田とゼネコンを仲介したヤクザも捕まるって情報あったろ? あれな、結局捕まらなかったんだよ。逮捕状は出たけど、本人の身柄を確保する寸前で県警二課の捜査員に、逮捕中止の命令が出たんだと。てっきり、うちらはヤクザも逮捕されるもんだと思って、張り付いてたからよ。とんだ無駄足になっちまった。ヤクザに張り付いてた人員を別のところに回してたら、スクープだったのに」
「えっ、どうして」
「知らないよ。きっと警察上層部の判断なんだだろう。でも、もういい。この件については、これ以上追わなくていいからな」
大山の言う、逮捕が中止されたヤクザというのはよく知る男だった。
煌王会二次団体幹部・高坂晋也。
その名を聞かされた時、私はある事を思い出した。以前、倉沢に見せられた告発状の内容だ。あれにはたしか、高坂に弱みを握られた知事・三上香流が県警に鼻薬を効かせている旨が書かれていたと思う。
信じてはいなかったが実際のところ、高坂は逮捕直前で拘束を免れている。
あくまで推論だが、自らに逮捕状が出されたと知った高坂が三上に連絡を入れ、これを受けた三上が逮捕状を握りつぶすよう県警の刑事部長に圧力をかけたのだろう。確たる証拠は無いが、このルートしか考えられない。
記者として興味はそそられたが、上から「追わなくていい」と言われたので、当面の間は忘れることにした。
十二月二十七日。私は編集部の下半期のMVPに選出された。特に狙っていたわけでもなかったが、前の月に書いた記事が決定打になったようだ。大山の推薦のほか、麻衣を含め多くの同僚から私の名が挙がったらしい。
賞状伝達の後、祝賀会も兼ねた忘年会が催された。宴を楽しみ、ほろよい状態で帰宅すると、エントランスの集合ポストが目についた。
「あれ……?」
ポストの蓋が開いていたのだ。見たところ、郵便物が入っているようには見えない。何かが、無造作に突っ込まれている。
ただならぬ雰囲気を悟った私は、ゆっくりとポストを空けてみる。入っていたのはおびただしい数の写真。被写体はどれも同じだったが、思わず目を疑ってしまった。
私だ――。
入っていたのはすべて、私を盗撮したと思われる写真だった。
一枚目は、私が職場のビルから出てきた瞬間を捉えた写真。二枚目は、渋谷のカフェで食事を取っている最中の写真。そして三枚目は、そのカフェで取材相手から話を聞いている瞬間。私の日常の、ありとあらゆるシーンが収められた写真が、次から次へと出てくる。
たぶん、三十枚は軽く超えていたと思う。どれも、外出先で撮られたものと分かる。ポストの中の写真をすべて手に取った後、さらに白い紙が入っていた。
『逃 げ ら れ る と 思 う な』
大きく、一文字ずつ書かれている。私はゾッとした。しばらくの間、動きが止まっていたと思う。
倉沢――。
頭の中に、真っ先に浮かんだ名前だ。
あの男が未だに盗撮を続けており、撮った写真をここに入れたのか。倉沢の名と共に、様々な憶測が浮かんだが、私はポストの中の物を全て取り出すと足早に部屋へ入った。
翌朝、私は管理人室の窓口を尋ねる。
「すみません。昨日の夜、私の郵便受けに手紙を入れに来た人は、どんな人でしたか?」
「さあ、覚えてないですね。どうかされましたか」
私は昨晩の出来事を管理人に説明した。
「そんなことが……あ、よろしければ防犯カメラの映像でも、ご覧になりますか?」
「はい。是非とも、観たいです」
管理人は私を室内に入れると、何やらキーボードを叩き始めた。
「昨日、霧島様が外出されたのは何時から何時までですか?」
「ええっと、七時から二十三時まです」
「わかりました。では、その間の郵便受け付近の映像をお見せします」
モニターに映像が出される。
「人が来るまで、早送りしますね」
時折、人影が現れると早送りを止める。そして、他室の住人に郵便物を届けに来た配達屋と分かると、早送りを再開する。新たな人影が来たら、また止める。そんな作業をしばらく繰り返す。
やがて、画面内に全身黒服に身を包んだ人物が、にゅっと出てきた。それまで、散発的に訪れていた郵便局員や運送業者とは、明らかに身なりが違う。手元には、白い紙袋を下げているではないか。
「おや?」
黒ずくめの人物は、ズラリと並んだ郵便受けを眺めている。カメラの位置ゆえに、後ろ姿しか確認できなかったが、その視線は間違いなくポストの上に記載された、各部屋の番号に向けられていたと思う。
左から右へ、首を動かしている。投函先の部屋を探しているのだろうか。やがて、その動きがピタリと止まる。見つけたのか。
「明らかに怪しいですね」
管理人の言葉に、私は完全に同意した。黒服の人物はキョロキョロと辺りを見わたしている。まるで、周囲に人がいないことを確認するかのように。
マヌケな奴だな、と私は思った。
その時、近くに誰もいなかったとしても防犯カメラで視られているのだ。
もしや、カメラの存在に気づいていないのか――。
そんな推測を裏付けるかの如く、その人物は背後を振り向く。サングラスにマスクをしていたので、表情をうかがい知ることはできなかった。しかし、その装いには誰が見ても不審者にしか見えない怪しさが詰まっていた。
「もしかしたら、コイツかもしれません」
「……心当たりあるんですか?」
「さあ。分かりません。顔が隠れているので」
そう私が答えた瞬間、不審者は向き直ってポストを空けた。
私の部屋だ。
そして床に置いていた紙袋から写真の束を取り出すと、乱雑に中へと放り込む。しまいには白い紙を入れ、扉を閉じようとした。しかし、入れ方が悪かったのか、上手く閉まらない。不審者はそれでも、強引に閉めようと、何度も挑戦した。少し、焦っているのが分かる。
だが、何回試みても、ポストの扉が閉じることはない。やがて諦めたのか、紙袋を手にしてその場を走り去っていく。現場には、閉まりきっていないポストだけが残された。昨日、私が帰宅した際の状況と、全く同じだ。
「やはり、この人のようですね。どうしますか? 警察に通報されますか?」
「お願いします」
写真と手紙。盗聴とは違って、目に見える物証があるので、今度ばかりは警察に相談しても良いだろうと思った。
「わかりました」
管理人が警察に電話している間、私は不審者の正体は倉沢ではないかと考えていた。記憶の中にあった奴の印象と酷似しているのだ。最後に見たのは十一月だが、その頃と変わっていない。
盗聴という隠密手段を封じられた倉沢が、今度は直接私に手を出してきた――。
そうとしか考えられなかった。
「警察です。どうされましたか?」
「実は……」
通報を受けて現れた制服姿の警察官に、私はポストに入っていた不審物のことを説明した。同時に管理人が防犯カメラの映像を見せる。
話を聞いた警官はしばらくエントランスの中を調べ、郵便受け周辺の様子を何枚か写真に撮ってゆく。そしてひと通り作業が済むと、次の台詞を置いて帰ってしまった。
「現時点で、危険は無いようですね。このマンションは、セキュリティーもしっかりしているようですし。また何か起こったら、呼んでください」
軽い――。
それが、率直な感想だった。警官は、私の名前を聞くこともしなかった。どうやら、もうワンランク上の被害が私に及ばぬ限りは、動かないらしい。
日本の警察はストーカー事犯の取り締まりにおいて、加害者に「被害者への恋愛感情」が無ければ事件化しないのだという。これは、ストーカー規制法が逮捕要件を恋愛に限定しているからだ。
よって私が、かつての取材対象者である倉沢につきまとわれても警察は動けない。つきまといの事実だけでは倉沢を逮捕できず、住居侵入や器物損壊、傷害など、逮捕状を出すに足りる事実を伴う必要がある。
ゆえに、警官は帰り際に「また何か起こったら」と言ったのだ。
「今日のところはもう、他にできることは何も無いみたいです。お騒がせしました」
管理人にそう告げると、私は職場へ向かった。一連の出来事があったために、普段より大幅に遅れてしまった。上司から、遅刻を咎められることは無かったが、代わりに私をひどく心配している者がいた。麻衣だ。
「沙紀、大丈夫? 何があったの?」
「昨日、忘年会から帰ったらマンションの郵便受けに私を盗撮した写真が入っててさ。それで朝、警察を呼んで対応してたら遅くなった」
「えっ! 警察を呼んだの?」
麻衣は驚きの声を上げた。彼女の反応は、私が盗聴に遭っていることを初めて打ち明けた日とは違っていた。その時は、冷静に事実を受け止めてくれた麻衣だったが、今回は、こちらに戦慄が走るほどの大きな声で驚いた。
「それ、マジな話?」
「うん。証拠もいくつか渡した」
「そっか……」
「麻衣?」
「あ、ごめん。ちょっとびっくりしちゃってね。沙紀は警察が嫌いだと思ってたからさ。ちょっと、場所を変えようか」
私は麻衣に腕を引かれるまま、休憩室へ入った。たまたま私達以外に誰もいない、静かな状態だった。
「沙紀、菅野さんに倉沢の始末をお願いしたんじゃなかったの?」
「あの人、いま入院してるの。病室で、ヤバい相談はできないでしょ」
しばらく考え込む姿を姿を見せた後、麻衣は言った。
「じゃあ、私達で殺しちゃおうよ」
「は?」
「だから、私達で倉沢を殺しちゃおうよって言ってるの」
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうしてそうなるの?」
「これ以上、そいつを生かしておくと危険だからだよ」
意味が分からなかった。立ち消えになったと思っていたら、ここで蒸し返された。あからさまに嫌そうな表情を受かべる私に、麻衣は淡々と説明する。
「このあいだ、菅野さんに言われたよね? このまま倉沢を野放しにしておくと、必ず必ず第二第三の攻撃が来るって。実際、盗撮の写真をポストに入れられたじゃん。第三の攻撃も、時間の問題だと思う。そうなる前に、始末しておいた方が絶対に安全だって」
「そうかなぁ……」
「そうに決まってるでしょ。どんどんエスカレートしていくと思う」
「例えば、どんな風に?」
「今度は直接、沙紀を殺しに来たり」
「殺しに来たら、ある程度応戦できるよ。私、こう見えても強いんだから」
麻衣は、私の両肩をギュッと掴んだ。
「駄目だよ。ああいう狂ったやつは、本当に何をしでかすか分からないんだから。応戦するって言っても、土壇場で思わぬ行動に出られたら、応戦のしようがないでしょ? 倉沢みたいな奴に武器を持たせると、本当に危険なんだよ」
「たしかにそうだけどさ……でも、殺すってどうやるの?」
「菅野さんの弟に頼むんだよ。ダイレクトに連絡を取ってさ。私、連絡先を知ってるから」
「なんで知ってるの?」
「前に頼んだ事があるから」
冗談を言ったのかと思ったが、眼差しは真剣そのもの。実話のようだ。
「その時は、菅野さんを間に挟んだけど……後で本人とも知り合って。『もしもの時のために』って、連絡先を渡されたの」
誰の始末を頼んだのか、などとは聞かなかった。彼女にとっては、思い出したくもない出来事だろうと察したからだ。
「とにかく、早めに手を打つべきだよ。後で、そっちの携帯に連絡先を送るから」
「……」
私が仕事に戻ると、麻衣からLINEが送られてきた。電話番号だ。
「開口一番、オペレーターに『清掃スタッフの派遣をお願いします』と言ってね。担当者に繋いでくれるから。それ以外は、何も言わなくていいよ」
それが、合言葉のようである。しかし、私はそれにかけるような真似はしなかった。こちらから、電話で倉沢の殺害を頼めば、私が殺人教唆の罪に問われてしまうのだ。その日は何事も無く家に帰り、静かな夜を過ごした。
ところが翌日、オフィスへ出た私は待ち受けていた麻衣に、再び休憩室へと連れ込まれた。
「昨日、連絡した?」
「別に。してないけど」
「どうしてよ! 早めにって言ったじゃん!」
「昨日は、何の被害も無かったから……」
「そうなる前に手を打たなきゃいけないんでしょ!」
話している途中で、強引に言葉を遮られる。麻衣がいつもより、妙にせかせかしているように見えた。
「沙紀、倉沢を殺したいって思わないの?」
「思うよ。頭の中では。ただ、それを実行に移すかどうかはまた別の話」
「どうして別の話になるの?」
私の中に、人殺しがいけないだとか、法律は守るべきだとかいう遵法精神は、微塵のカケラも無い。ただ、その行為が露見して罪に問われるのが怖かった。安易な気持ちで人を殺し、罪に問われて裁きを受け、今まで築いた全てを失う。それだけが、たまらなく怖かったのだ。
「……バレたら終わるじゃん」
裏を返せば、バレないのなら人を殺すのも悪くはないという意識だった。そんな心の中を読んでいたかのように、麻衣は私に尋ねた。
「じゃあ、バレなければやるの?」
私はひと言で答える。
「やるよ」
返答は受けた麻衣はクスッと笑った。
「安心して。絶対にバレないから」
「どうしてそう言い切れるの?」
「私がバレてないから」
そう言うと、麻衣は自らの経験を語り始めた。
「一年半くらい、前かな。私は、その頃にどうしても消さなきゃいけない人間がいたの。それで、菅野さんに相談したら三日後に、そいつの首吊り死体が見つかった」
「つまり、菅野さんの弟がそいつを自殺に見せかけて殺したと?」
「うん。その後は、警察が自殺で処理して終わりよ」
「でも、警察に疑問を持つ人はいなかったのかな。『自殺にしてはおかしい点がある』みたいに。それに、自分で首を吊って死ぬのと他人に絞められて死ぬのとでは、状況に差が出るんじゃないの?」
「ああ、それなんだけどね。人を自殺に見せかけて殺す方法が、闇の世界には沢山あるらしいよ。ちなみに、私の元彼を殺したのは『地蔵背負い』っていうロープの絞め方」
「地蔵背負い?」
初めて聞く単語だった。麻衣は腰をかがめ、誰かをおんぶする仕草をして見せた。
「うん。こうやって、相手の首にロープをかけて背負うと、もがけばもがくほどロープが食い込んでいって最終的には相手が窒息死するの。体重が重しになるからね。たしかに、普通の自殺とは現場の状況に差が出て当然だろうけど、プロは相手が抵抗した痕跡なんかもついでに消しちゃうらしいよ? 今どき、そういう証拠隠滅の手段も進歩してるからさ。ドラマじゃあるまいし、巧妙に施されたトリックを見破れる優秀な刑事なんて、いやしないよ」
「へぇ……」
「そうだ! 倉沢もそれで殺してもらったら? 地蔵背負いで、首吊り自殺に見せかけてさ。あいつは心を病んでるんだから、衝動的に自殺したって、何も不思議じゃないでしょ」
話を聞いた限りでは、たしかな方法だと思った。しかし促されるままに「わかった。やろう」と頷けるほど、この時は追い詰められた状態でもなかった。
だが、それは一変することになる。
日曜の仕事を終えて帰ってくると、エントランスが何やら騒がしい。マンションの住人が十人ほど集まっているのが分かった。時刻は二十二時を少し、過ぎた頃。この時間に人が集まるのは、珍しい。妙な胸騒ぎを覚えた。
「何かあったんですか?」
「いやぁ。郵便受けから、変な臭いがするんですよ……」
その瞬間、私の鼻も異臭を感知した。鮮魚が腐ったような、臭い。とても、嗅いでいられるものではない。思わずハンカチで顔をおさえると、近くにいた女性が話しかけてきた。
「あの……」
「はい?」
振り返ると、五十代を少し過ぎたくらいの中年女性が立っている。名前は知らないが、同じ階の住人だった。前にエレベーターで顔を合わせた程度で、それ以降は全く交流が無い女性だった。
「この変な臭い、霧島さんのポストですよね?」
女性は、私の郵便受けを指差す。ただならぬ異臭に顔を歪めながら視線をおくると、扉が少しばかり、開いているのが分かった。何やら、赤い汁がポタポタと床に滴り落ちているではないか。
私のポストに、何かが入っている。間違いない。
次の瞬間、そこに集まっていた住人達の視線が、一斉にこちらを向いた。無言のメッセージというべきか、圧力というべきか。口には出さずとも「お前のポストなのだから、お前が開けて中を確認しろ」という意思が、彼らから伝わってくる。
「……」
こうなっては、仕方が無い。私は、一昨日の夜と全く同じように、恐る恐る扉を開けて中を覗き込んだ。
「うわっ!」
入っていた中身を知った瞬間、私は反射的に大きな声をあげてしまう。
中に入っていたのは、犬の死骸だった。四本の足、胴体、尻尾、そして頭。バラバラにされた状態で、ポストの中に押し込まれている。そのうち犬の頭が、扉を開けた瞬間にゴロっと足元に落ちた。
心なしか、犬の顔は苦痛に歪んでいるように見える。命を絶たれる瞬間に「ワオン!」と、断末魔の叫びを上げたのだろうか。
もはや、知る由も無いが、滴り落ちていた赤い汁の正体は知ることができた。犬の血液だ。もともと死んでいた犬を見つけてきたのか、このために、倉沢が殺したのか。
盗撮写真の次は犬の死体ときて、次は何だ――。
様々な事を考えてしまい、次第に私はパニック状態に陥っていった。
「あの、大丈夫ですか?」
「え……」
ふと我に返ると、私の傍には制服姿の警官が立っていた。一昨日とは違う人物だ。エントランスに集まっていた住人のうち誰かが通報したらしい。取り乱していたので、気づかなかったようだ。
「これはかなり悪質ですね。異常と言わざるをえませんな……」
ポストに犬の死骸を入れたのは、昨日と同一人物の可能性が高い――。
それが管理人室で、防犯カメラの映像を確認した警官の見解だった。彼は、苦々しい表情を浮かべていた。あれは俗に言う「ドン引き」の顔だろう。それだけ状況は惨たらしく、見る者を恐怖に陥れたのだ。
「ポストは郵便ポストは、消毒する必要があります。しかし、本日はもう遅いので明日になってしまいますが。よろしいですか?」
「はい。お手数をおかけして、申し訳ありません」
私は警官に、犯人が倉沢一希という名前である事、仕事上のトラブルで逆恨みされている事を伝えた。
彼ら曰く、この件は器物損壊、動物愛護法違反で捜査されるらしい。以降はマンションの周囲を巡回すると約束し、緊急時の連絡先等を仕えると帰って行った。
「遅くなっちゃったな……」
部屋に上がると、もう日付が変わっていた。全身が重い。仕事の疲れも相まって、すぐにも倒れてしまいそうな程だった。
とりあえず、休もう――。
シャワーを浴びると、食事もとらずにベッドへ入った。そして、十五分も経たないうちに夢の世界へと落ちていく。
「あれ?」
気がつくと、私は電車に乗っていた。
緑色の横並びシートに腰かけている。周囲をぐるりと見回すと、車内はそこそこ混んでいる。外からは陽が差しており、時間帯は昼間なのだと分かった。同時に、自分は夢の世界にいるのだと自覚した。車内で見かける文字が、明らかにおかしいのだ。
例えば、中吊り広告。フォントや構成から週刊新星の広告だと分かったのだが、並んでいる文字が全て平仮名だった。おまけに「げづぞじゅすぐばじょげぎりじゃべごぐ!」といった風に、書いてある意味が全く、不明だったのだ。ただ、背後の写真からそれが皇室関連の記事だという事は、何となく分かった。
私は、ここが夢の中であると認識するのに時間がかからなかった。
文字がおかしい点を除けば、他は至って普通。座ってライトノベルらしき本を読む女子高生、吊り革につかまりながら音楽を聴くサラリーマンなど、私がいつも乗っている京浜東北線の風景に、そっくりだ。
ずいぶん地味な夢だな――。
最初はそう思っていた、しかし、直後に聞こえた悲鳴でその感想は撤回せざるを得なくなった。
「キャアアアアアアーッ!」
私の対角線上の斜向かいに座っていた女子高生が、隣に座った、黒いジャンパーの男にナイフで体を裂かれていたのだ。彼女の体からは次々と内臓がえぐり出され、血にまみれた肉片が、電車の床に散らばってゆく。
その様子はさながら、マグロの解体ショーだ。ナイフを握る男はフードを深くかぶっており、顔を窺い知ることはできない。一方、女子高生は体を執拗に切り刻まれる。
次に、男は彼女の裂かれた腹に手を突っ込むと勢いよく、太くて長いひも状の何かを取り出す。その瞬間、体の主はつんざくような声で苦痛を訴えた。
「ヴワァアアアアアーッ! 痛いィィィ! 死にたくないよォォォォォーッ!」
男が引っ張り出していたのは、女子高生の腸だったと思う。以前、人間の腸は長いという話を聞いたことがあった。それはゴムのように伸び、周囲に異臭をまき散らす。ここが、夢の中である事を忘れるほどに。
近くにはスーツ姿のサラリーマンが立っていたのだが、相変わらず、イヤホンで音楽を聴いている。すぐそこで起こっている惨状には気づいていないのか、彼は黙って、下を向いたままだった。
それは他の客も同じで、男の手によって体中の臓器をえぐり出されている女子高生には目もくれない様子。「視界に入っていない」とでもいったところだろうか。あまりにも惨い光景に、私は恐怖と共に、強い違和感を覚えた。
「何すんだよ! ああッ、やめろ! ウグッッ」
そんな声が聞こえたかと思うと、今度はサラリーマンが男に襲われていた。両手で首を絞められ、声にならない声で悶え苦しんでいる。そして男が首から手を放した瞬間、彼はその場に崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……お前……ふざけんなよ……」
首を絞められ、あわや窒息寸前という所だったのだろう。サラリーマンは、すっかり呼吸を乱していた。
すると、黒服の男は床に置いていたナイフを再び手に取り、相手の顔を掴んで無理やり口を開けさせた。
「ウウッ! オオッ」
いったい、何をするつもりなのか――。
そう思ったのも束の間、男は衝撃的な行動に出る。大きく開けさせたサラリーマンの口の中から、舌を見つけて引っ張ると、そこにナイフの刃を突き立てたのだ。その場を悲鳴と鮮血が、支配してゆく。
「アアアアアアーッ!」
サラリーマンは、舌を切り落とされた。
そして、噴水の如く口から血を吹き出しながら背後に倒れる。車内には彼と内臓をえぐり出された女子高生、2つの死体が転がった。目の前で繰り広げられる悍ましい出来事に限界を感じた私は、夢から早く醒めたいと思った。
しかし、醒め方が分からない。
現実世界に戻る方法が、まるで分からなかったのだ。どんなに目を閉じようと、念を込めようと、私は不気味な電車の中から出られない。そうしているうちに、黒服の男は私の目の前まで来ていた。手にはナイフがしっかり握られている。このままでは自分も、彼らと同じ目に遭うと直感した。
私は神経を集中させ、夢から覚めようと何度も試みた。
しかし、できないものはできない。黒服の男は何もせずにじっと私を見つめていた。沈黙の時間が刻々と流れる。
「……」
やがて男は何を思ったのか、それまで顔を隠していたフードをゆっくりを脱いでいく。少しずつ、顔が明らかになってゆく。そしてフードが完全に脱がれた時、私はその顔を見てゾッとした。
さっきの犬だ――。
黒服男の正体はバラバラにされ、私の郵便受けに放り込まれた犬だった。首から下は黒いジャンパーに、黒いレザーパンツ。手には、黒い手袋をはめていた。
犬の頭に人間の体がついているのだ。
異様としか形容できない姿だった。あまりの姿に、私はもう気を失ってしまいたかったが、夢の中ではそれができない。恐怖が絶望に変わり始めたその時、目の前の犬が喋った。
「逃 げ ら れ る と 思 う な」
底冷えするような、低くてどっしりとした声。聞き覚えがあった。しかし、犬が喋り終えた瞬間に私はふと意識が無くなってしまう。
気づくと、いつもの寝室にいた。夢が醒めたようだ。全身にぐっしょりと嫌な汗をかいていて、頭には鈍い痛みが走っている。
時計をみると、午前十時三十分。日付は、十二月二十九日へと変わっている。普段よりも長い時間、眠ってしまったようだ。悪夢はようやく、過ぎ去った。
私は寝室からキッチンに向かうと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、半分ほど飲む。しかし、心が落ち着くことは無かった。ひどく凄惨な光景から生まれた恐怖と絶望が、未だに自分を支配している。
「逃 げ ら れ る と 思 う な」
夢の中で最後に聞こえた声が、再び私の中に響き渡る。私は、ピンときた。
「これ、倉沢の声だ……」
私は1度、現実世界であの男に殺されかけているので、鮮明に覚えていた。あの声と何ら変わらない。倉沢が現実で私を苦しめたのに飽き足らず、夢にまで現れて苦痛を与えた。
そう考えると、私の中に渦巻いていた恐怖と絶望が、次第に怒りへと変わり始める。怒りの念はすぐに沸点を超えて憎悪へと変わった。いま思えば、この時の精神状態は尋常ではなかった。明らかに常軌を逸していた。
倉沢が憎い――。
この境地に陥ってしまったことが、事件の始まりだった。
やはり倉沢は殺しておこうと考えたのだ。私は鞄からスマホを取り出すと、麻衣から教えられた番号を素早く入力して、菅野の弟に電話をした。
その行為は本当に衝動的で、火の中に自ら飛び込む虫のようだった。
「お電話ありがとうございます。株式会社マネジメントサービスでございます」
「清掃スタッフの派遣をお願いします」
舞に教えてもらった通り、合言葉以外は口から出さなかった。オペレーターは女性の女性は少しの沈黙の後、落ち着いた口調で指示をする。
「……かしこまりました。いま、おひとりでしょうか?」
「はい」
「教えて頂き、ありがとうございます。それでは十分以内に担当者より折り返しのお電話差し上げますので。そのままの状態で、しばしお待ちくださいませ」
電話を切った後、私は自分で自分を笑った。つくづくおかしな女だ。
あれほど殺人という選択肢を嫌がっていたのに、刹那的な感情に流されてうっかり選んでしまうとは。私に、災厄が近づいている。それは足音こそ立てないが、何となく気配で分かる。
未来が、一瞬にして雲ってしまった――。
そんな自嘲を繰り返しているうちに、電話が鳴った。思ったよりもレスポンスが早い。しかし、今度は知らない番号からだ。普通、知らない番号からの電話には出ないが、先ほどの折り返し電話であることは、間違いない。
「もしもし?」
今度は男の声だ。
「掃除がしたいって聞いたけど。何人?」
掃除とは殺しを指す隠語だろう。しかし、私は裏社会の人間ではないので、意味を詳しく知らない。勘で答えざるを得なかった。
「とりあえず、一人をお願いいたします」
「一人ね。了解。これから、打ち合わせしようか。暇な時間を教えて?」
向こうは、私と直接会って話がしたいのだという。職場は前日に仕事納めだったので、完全にフリーだった。しかし、翌日には新幹線で地元に帰省することになっていたので、会うなら今日しかない。頼ろうと考えていた菅野は、入院中だ。誰かに代わりに、会いに行ってもらうことはできない。
しばらく考えた後、私は自分で行くことを決意した。
「では、本日の十三時はいかがでしょうか?」
「いいよ」
通話が終了すると、私の気は落ちた。今の自分が、底なし沼に足を踏み入れた砂漠の旅人のように思えたのだ。しかし、こちらから話を持ち掛けた以上、もはや引き返すわけにはいかないだろう。相手とは、時間の約束までしてしまった。
どうすればいい――。
頭の中で、処理が追い付かない。憂鬱な気持ちを抱えながら、私は電話で指定された場所へと向かった。
ここの具体的な地名は、割愛させてもらうが「目黒区の駐車場」とだけ書いておく。昼間から車の出入りが少なく、周りには防犯カメラも無い。まさに、よからぬ企てをするにはうってつけの場所だった。約束の時間、一台の白いバンがエンジンをかけて停まっている。
「あの車だ……」
私は眼鏡をかけて、マスクを着けていた。花粉症のシーズンでもないが、せめてもの変装のつもりだった。その車のドアを指定された叩き方でノックすると、助手席の窓が開いた。
「どうぞ。乗りな」
スライド式のドアが開き、私は後部座席に乗り込んだ。運転席には、コートを着た男。助手席には、スーツを着込んだ男が座っている。
まるで、ドラマや映画のワンシーンのようだ。心臓の鼓動音が聞こえる。
もう引き返せない――。
自分は、とんでもないことをしている。これから、人を殺そうとしているのだ。ここまで来る過程において、土壇場で断る方法もあったのかもしれない。
それを敢えてやらなかったのは、やはり私の中で倉沢への復讐心が滾っていたからなのだろう。
いずれにせよ、もう引き返せないところまで来てしまった。
わずかな落ち度も出さぬよう、慎重に振る舞おうと思った。後部座席には他にもスーツ姿の男が一人、座っていた。
「おう霧島。久しぶり!」
予想外の人物だった。
「え……井原君?」
そこにいたのは六本木の井原。十月に彼の店を訪れて以来、全く音沙汰が無かった。単にこちらから連絡をしなかったのもあるが、思いがけない再会となった。
「まさかこんな形で会うとはなぁ……」
井原の素性については、十月の時点で何となく察しがついていた。私は、思い切って聞いてみる。
「それは、こっちの台詞。今さらだけど井原君、ヤクザなの?」
「うん。渡世修行中の身だけどね。あはは」
そう笑い飛ばした井原は、懐から名刺を取り出した。
「ついでに言うと、俺は井原じゃない。こいつが俺の本名」
渡された名刺には「水上恭介」と書かれていた。
「水上だったんだ……」
「隠しててごめん。今の時代、ヤクザは昔みたいに、顔と名前だけじゃ稼げないんだよね。必要に応じて、名前と肩書を使い分けなきゃ」
「そうなんだ。これから、あなたのことは何て呼べばいい?」
「そうだな。水上でいいよ」
「わかった」
私には、井原改め水上に聞きたいことが他にもあった。なぜ私の同級生に成りすましていたのかということだ。しかし、それを話している余裕は無い。早く、事を進めなければ。
「さっそくだけど、本題に入ってもいいかな」
「ああ」
水上は続けて尋ねた。
「誰を殺りたいの?」
「こいつ」
私は予め持ってきた倉沢の写真を渡す。
「名前は?」
「倉沢一希。千葉市在住のWEBデザイナー」
渡した写真をじっと見つめながら、水上はコクンと頷いた。
「……なるほどね。依頼の動機は聞かないよ。報酬さえ貰えりゃ、どんな奴の首も取る。うちの組はそういう主義だからね」
「そうなんだ。助かるよ」
正直、なぜ倉沢を殺したいのかをここで詳しく語らなくて良いのは、有難かった。無駄な時間が省けるというものだ。
「んで、その報酬の件なんだけど。今回、とりあえず三百万でどうかな」
水上から提示された額は、予想よりも少し安かった。
「うん。お願いしようかな」
「よし」
軽く笑みを浮かべると、水上は私に右手を差し出す。私も手を出して、握手を交わした。
「支払いは現金オンリー?」
「もちろん。三百万のうち、半分を先に、着手金として貰うよ。残りのは成功報酬として、仕事を果たした後で貰うから」
「わかった。いつまでに払えばいいの?」
カレンダーだろうか。水上はスマホの画面を見ながら言った。
「そうだな……明日までに着手金を納めてくれるなら、その倉沢って男の命日は一週間後の一月六日になるよ」
「じゃあ、明日払うね」
次に会う時間と場所を決めると、私は水上たちの車を降りた。乗っていたのは十五分弱だったが、まるで一時間のように錯覚した。
人間の体内時計というものは、その時々の精神状態によって変化するものだ。緊張している状態であればあるほど、時が経つのが長く感じる。
「冷や汗をかいちゃったな……」
翌十二月三十日。私は自宅の金庫から百万円の束を二つ取り出すと、そのうち一つを半分に分けた。紙幣計算機の類は持っていないので、もちろん手作業だ。慣れない作業なので、時間がかかってしまった。
なお、家の金庫に入っているのは、全て「副業」で稼いだ金。
当然、他人から脅し取った金を銀行に預けられるわけがないので、洗浄が済むまでは家具に偽装した金庫で保管しているのだ。
そんな汚い札束で約束の金額をつくると、私は封筒に詰めて家を出た。この日も待ち合わせは前日同様に目黒区だったが、駐車場ではなく、細い裏路地にバンが停まっていた。ノックの仕方も、前日とは違う。
どんなに人気の少ない場所を選んだとしても、どこに人の目があるのか分かったものではない。同じシチュエーションを作っては、怪しまれるとの理由だった。能動的に犯罪に携わる以上、警戒心は最大限に研ぎ澄ましておくべきだと水上は話していた。
「持ってきた?」
「うん」
私は、封筒を差し出す。受け取った水上は、中身を丁寧に確認する。彼の慣れた手つきはまるで、窓口対応の銀行員のようだった。
「よし。たしかに。受領した」
水上は、札束を自らのバッグの中に詰め込む。殺人という、最大級の犯罪の着手金なのだ。領収書などは、存在しない。
「こういうのは、お互いにリスクを等しく共有することで成り立つんだ。今回、俺たちは殺人罪を二人で分かち合う。受注者である俺が殺人の実行犯になるのは勿論、発注者の霧島は殺人教唆の共同正犯だよ。法律上、殺人は教唆犯にも同じ罪が科せられるからね。そこは、大丈夫?」
「うん」
「なら、いいけど。分かってると思うけど、これは表には存在しない闇の世界の取引だよ。年明けの六日に倉沢一希はこの世を去るけど、死因は自殺だ。もし、彼の死の真相が表に出る事があれば、その時は全員の破滅を意味するんだよ。だからその因果を理解した上で、みんなが固く口を閉じる必要がある。もし、誰かの口から秘密が漏れたら……そいつは死ぬことになる。闇の世界において、責任を取る方法は死のみ。そこには、極道もカタギも関係ない。ひと度でも闇の世界に触れた以上、こっちの掟には、全面的に従ってもらうぞ」
「いいよ」
「なら、契約成立だ」
再び握手を交わした。その後、車は走り出す。私をそのまま自宅近くまで送ってくれるらしい。走り出して五分ほど経った時、水上が喋りかけてくる。
「霧島、年末年始の予定は?」
思いもよらぬ話題を振られた。軽い雑談とはいえ、なぜ私にプライベートなことを聞いてくるのだろう。
「お正月は地元で過ごす予定だけど」
「帰省か。安心したよ。あ、ちなみに向こうにはどのくらい滞在する予定かな?」
「年明けの五日まで」
水上は言った。
「悪いけど、東京に戻るのは七日まで延ばしてもらえるかな」
私が東京にいると困る事情でもあるのだろうか。気になった私は尋ねてみた。
「いいけど……どうして?」
「お互いの安全を確実にしたいのさ。七日までは、連絡もしないでくれよ?」
やはり水上はヤクザだけあって、警戒心はあるようだ。安全確保のためと言われたら、受け入れるしかない。
「わかった」
吉祥寺までの四十五分がとてつもなく、長く感じた。
「霧島。最後に改めて言っておくけど、この世界において『約束を破る』という行為は禁忌中の禁忌だからね。そこんとこ、よろしく」
私は裏社会の住人ではないが、約束を破ることが許されないのは、如何なる職業でも同じだろう。
「わかってるよ」
水上たちの車から降りると、足早にその場を立ち去った。暮れの東京は風が冷たく、肌を刺すような空気が漂う。握った手に、汗をかいているのが分かる。
私は自宅に戻ると、すぐに荷物をまとめて地元の岐阜へ帰った。
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