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20.元旦 New year’s day
年が明けて、令和二年一月一日。まだ眠気も冷め切らない時間に、携帯が鳴った。
「もしもし?」
「あけましておめでとう」
相手は地元の友人・後藤雛子。同窓会以来、会っていなかった。
「これから、初詣に行こうと思ってるんだけど。良かったら、一緒に行かない?」
正月は、どこの店も閉まっていて、家でテレビを観るくらいしか、する事が無い。他に、遊ぶ相手もいない。暇を潰すのには、ぴったりだろう。
「いいよ」
待ち合わせ場所にやって来た雛子は、振り袖姿だった。
「着物とか、随分気合い入ってるね。ただの神頼みなのに」
「神頼みって……初詣は、新年の無事と平安をお祈りする大事な行事なんだよ?」
「とかいって、本当は境内の出店で買い食いするのがメインでしょ」
「そんなことないよ。ちゃんと、ことし一年が何事も無く過ごせるように、祈願しようと思ってきたんだよ」
「まあ、いいんだけど。それにしてもこの寒い中、よく着物で来られたよね……」
雛子は、かじかんだ指先にフーっと息を吹きかけていた。
山に囲まれた飛騨地方の冬は寒く、雪が多い地域だ。この日も、気温は氷点下の冬日。普段は東北在住で、寒さには慣れたはずの雛子も、流石に寒そうな素振りを見せていた。
「ああ、寒い。早く、済ませちゃおうよ」
私達が訪れた稲葉神社は、初詣客が県内でも非常に多く、参道を歩く人でごった返している。私達は、中央を避けて本殿へ進んだ。
「そういえば最近、彼氏さんとは上手くやってるの?」
「うん。仲良いよ!」
そう言って雛子は笑顔を見せる。前の年、彼女は三歳上の恋人から、プロポーズを受けたと話していた。
「でも結婚を考えたら、やっぱりお互いの人生設計も見据えなくちゃいけないわけでさ。収入とか、お互いの両親のとか、考える事だらけだよ」
「そっか。大変なんだね……結婚するって」
「沙紀はどうなの? 結婚する予定とかは無いの?」
私は、首を大きく横に振った。
「仕事が忙しくてね。もう全然、ご縁が無いよ」
「じゃあ、縁結びのお守りでも買ってく?」
「いいって、別に。それよりも帰りに和菓子屋に寄って、お饅頭でも買って帰りたいな」
参拝を済ませた後、私達はお気に入りの和菓子屋に向かったが、この日は元旦。店は、正月休みの期間中である。つい、いつもの調子で動いてしまった。
「いまがお正月だってこと、すっかり忘れてた」
「もう……沙紀ったら」
「ごめんごめん。これからどうする?」
スマホの時計は、正午ちょうどをまわっていた。
「うちに来てよ。ちょうど今、両親ともに海外旅行へ行ってて、寂しいんだよね」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
私達は街道沿いの小道を抜け、雛子の実家まで歩いた。この日、雛子は寒空の下を徒歩でやって来たらしい。彼女の家は建設会社を経営しており、かなり大きい邸宅を構えている。着くなり、雛子は部屋の石油ストーブを起動させ、手を擦り合わせた。
「寒かったー。もう指先の感覚が無くなっちゃったよ」
「だから、無理して着物で行かなくても良かったのに……何か温かい物でも作ろうか? 冷蔵庫の中の食材、使って良ければ」
「うん。お願いするわ」
冷蔵庫の中にあったのは野菜と鶏肉、そして丸餅。正月らしく、雑煮の一杯でも作ってやろうと思った。
私が台所で調理を始めると雛子は居間のテレビをつけた。ちょうど、昼下がりのニュース番組を放送していた。
「そういえば、△△が消えたらしいよね。どこの国だっけ?」
「忘れちゃった。正月くらい、物騒なニュースからは目を背けたいな」
私の言葉などお構いなしに、雛子はチャンネルを変えない。本音を言えば、民放の正月バラエティー特番を観たかったのだが、この家の主は彼女。従うほかなかった。そんな時、画面の向こうのキャスターは次なる話題を伝え始めた。
『きょう未明、千葉市内の路上で発見された若い男性の撲殺体についての続報です。千葉県警はこの男性の身元を公表し、殺人事件の可能性を視野に入れて調べを進める方針です。遺体で発見された男性は千葉市在住の自営業、倉沢一希さん二十三歳』
その瞬間、鶏肉を捌いていた手が止まった。
『警察の調べによりますと、倉沢さんは全身に殴られたような跡があり、激しい暴行を受けて死亡したものとみられます』
気がつくと私は調理を中断し、テレビの画面に見入ってしまった。口をあんぐりと、開けていたと思う。
「ん、どうしたの?」
「いや、別に」
あの事件は私が仕組んだものだよ、とは口が裂けても言えない。
「正月早々、怖い事件が起きたなと思ってさ」
表情を繕うと、私は台所で調理に戻った。
何かがおかしい――。
これが率直な感想だった。まず、倉沢の死因は「自殺」となるはずだ。水上は彼を自殺に見せかけて殺害するものと思っていた。
聞いていた話と違う。
さらに、水上からは決行が一月六日になると聞かされていた。予定より、五日も早いではないか。
どうなっているのか――。
今すぐにでも水上に確認したかったが、うかつな連絡は、危ない予感がするので止めておいた。その代わり、料理に集中する。
「沙紀、まだー?」
居間にいる雛子から催促される。よほど腹が減っているのか、待ち遠しさが全体に滲んだ声だった。
「もうすぐだから、待っててね!」
その口調はまるで母親のようだった。まだ子供もいないのに。欲しいと思った事もないのに。私は少し、可笑しくなった。
ひと口大に切った鶏もも肉を鍋に入れ、中火で煮込む。煮立ったらアクを取り除き、薄く切った大根、にんじん、しいたけを入れてさらに煮込む。その間、トースターで餅を焼いた。そして十分後、雑煮が完成した。自分で作るのは久々だった。
「わあー。美味しそう。いただきます!」
汁をすすった雛子の感想は、嬉しそうな食前とは違い、少し微妙なものだった。
「ん。少し、しょっぱいかな」
「ごめんね。普通なら、薄口醤油のところを普通の醤油で代用しちゃったからね」
「あ……そっか。冷蔵庫に薄口醤油、無かったよね?」
「うん」
雛子の家の冷蔵庫は全体的に物が少なかった。調味料も殆どが切れている。空の瓶や、チューブが目立つ。
「いまお母さん、体調が悪くてさ。家事全般をお父さんがやってるんだけど、あの人はお湯を沸かすくらいしか料理ができない人だから、食事は殆どスーパーのお惣菜や宅配弁当。台所もしばらく、使ってなかったみたいなんだよね……」
それが理由のようだ。
「雛子のお母さんの体、けっこう悪いの?」
「うん。今ではすぐに、息切れしちゃう。肺をやられてるからね」
餅を箸でつまみながら、雛子はさらに言った。
「COPDって病気、知ってる?」
その病名には覚えがあった。
「うん。たしか、それで亡くなってた芸能人がいたと思う」
COPDはタバコの煙に含まれる有害物質によって、肺が炎症を起こす病気だ。長きにわたって喫煙していると発症しやすいらしく、その芸能人に至っては、十代の頃から吸っていたと聞く。
「雛子のお母さん、タバコ吸う人だったの?」
「お母さんは吸ってない。むしろ、タバコの煙が嫌いな人だった。吸ってたのはお父さん。もう一日に一箱半は吸ってるよ。その煙を長年、浴び続けたせいで、お母さんの肺は壊れてしまったの」
「まさか……受動喫煙でもCOPDになるの?」
雛子は大きく頷いた。
「もちろん。実際、副流煙の方が含まれてる毒の数が多いんだし」
「へぇー。初めて知ったよ」
その瞬間、私はハッとした。
私は普段、タバコの匂いが好きだ。煙を直接肺に入れるような真似はしなくても、あの香ばしい匂いをかいで悦に浸っている事が多い。
それは紛れも無く、受動喫煙ではないか。
有害物質が多いという副流煙が私の肺に入っている。このままでは肺の病を患ってしまう。私は、自らの行動を改めなくてはと感じた。
「気をつけなくちゃね……私、タバコの煙を吸う機会が多くてさ」
「そうなんだ」
「上司がヘビースモーカーでさ。部下の前でも遠慮なく吸う人だから、しょっちゅう煙を吸わされてるの」
「そりゃまずいね」
私の言葉に、雛子は苦笑しながら言った。
「そういう人の方が、案外健康だったりするんだよね。うちのお父さん、一日に二箱も消費するくらいなのに、今まで何の病気もやってないよ? でも、自分のせいでお母さんが病んじゃったから……負い目を感じて、禁煙に挑戦してるみたい。あと、いま海外旅行に行ってるのもお母さんへの罪滅ぼしって言ってた。これまで散々苦労をかけた上に、歳を取ってから病気までさせちゃったからね。ずっと行きたがってたイタリアに連れてってあげるのが、せめてもの償いだってさ」
「苦労したんだね。雛子のお母さん」
「うん。今でこそこんなに大きい家に住んでるけど、私が子供の頃は、ボロアパートに兄を入れた家族四人で住んでたんだから。お父さんが脱サラ起業したのはいいけど、事業が軌道に乗るまで、時間がかかってね。物心ついた時から、絵に描いたような貧乏暮らしだったよ。そこから会社が繁盛するまで十年以上、お母さんはパートを二つも掛け持ちして家計を支えてた。並大抵の苦労じゃなかったと思うよ」
話題はやがて雛子の母の話から、私の仕事の話に移った。
「沙紀は、雑誌の記者だったよね。どこの雑誌だっけ?」
「はい。ここで働いてます」
そう言って、私は雛子に「週刊新星 記者 霧島沙紀」と記された名刺を渡す。鞄の中にはいつも名刺入れが常備されているのだ。
「ええっ! すごいじゃん」
雛子の反応は、驚きに満ちていた。振り返れば、彼女にはこれまで「雑誌記者をやっている」くらいしか言っていなかった。そう考えると、彼女が驚くのも分かる気がするが。
「そうかな?」
「そうに決まってるよ。週刊新星って言ったら、知らない人はいないでしょ。そんな有名な所で働けるなんて、凄い話じゃん」
目を輝かせる雛子に、私は言った。
「有名な所で働けるのは有り難い話だけど、あんまり華々しい生活じゃないよ? ネタを探して走り回って、やっと手ごたえを掴んだと思ったら、全部ガセだったことも日常茶飯事。おまけに『週刊誌の記者』ってだけで、いろいろと差別されるんだよね。取材先で追い返されることも、しょっちゅうだし。記者会見には、なかなか入れてもらえないし。もちろん、上司への報告は『記者会見に入れませんでした』で済むわけない。自分なりのコネを使って、何としても記事を書き上げないといけない。うちらの業界で『わかりません』は禁句だしね……上にはせっつかれるわ、取材先にはあしらわれるわ。もう毎日が大変だよ」
「うわあ。そう考えると、なんか大変な仕事だね」
「でも私、今の仕事を気に入ってるんだよね。物凄くやりがいがあるし。自分が書いた記事が、世の中に出回る感覚が楽しいの。例えば、コンビニとかで売られている週刊新星に、自分が書いた記事が載ってるのを見た時とか。そういう時に『ああ、この仕事をやってて良かったなぁ』って感じるんだよ」
「でも、そういう時に彼氏がいたら凄く助けられると思うんだよね。いないの?」
今度は恋愛に話題が移ってしまった。
「いない。そもそも作ろうとも思わないし」
「どうして?」
私は自分の考えを明かした。
「めんどくさいんだよね。男の人って、独り善がりに色々と束縛するし」
「束縛するのは私の彼氏も同じだよ。残業で帰りが遅くなるだけで、めっちゃ心配して『大丈夫?』って、メールが来るし。出かける時いつ、どこに、誰と行くのかを全部報告しないと怒られる。それが本当か確認するために、写真も送らないといけない。家族以外の男の人との連絡は禁止、あと彼は私が飲み会に行くと嫌がる。『酔ってほかの男性と仲良くなったら?』みたいに心配してるんでしょうね。美容師の仕事も結婚したら、辞めろって言われてるし。たとえ仕事だったとしても、私が他の男の体に触れるのが、許せないみたい」
「はあ? 最高に鬱陶しいやつじゃん」
聞いただけで吐き気がするような話だった。だが眉間にしわを寄せる私とは対照的に、雛子は至って平気そうだった。
「でも、それだけ私の事を大切に思ってくれてるんだよね。なんだかんだ言っても、やっぱり愛されてるって感じる」
「愛されてるのかな。まあ、愛の形は人それぞれだけどね。私は、ただ単に自分の恋人を支配したいだけだと思うけど」
「私、あの人になら支配されても良いと思える」
これ以上、何を言っても無駄だ――。
そう直感した。雛子はすっかり、束縛男の虜になっている。私は仕事柄、DVの加害者に触れる機会が多い。
彼らに共通するのは「自分に自信がない」ことだ。ゆえに、恋人を他の男に取られるのではないか、どうにか繋ぎ止めなければ恋人は自分の傍から離れていくのではないか、という恐怖感にも似たマインドが働いてしまい、恋人の行動を制限しようとするのだ。
恋人が他の男に触れる機会を無くすことで、自分自身への不安な気持ちを少しでも和らげようとしている、ともいえる。
よって、私は恋人への束縛が激しい男ほど、自分に自信が持てない「不甲斐ない男」であると考えている。雛子の婚約者が結婚後、行き過ぎた束縛からDV男に豹変しても、不思議じゃないなと感じた。
「そっか。でも、何かあったらすぐに相談してね」
「うん」
友人への懸念は拭えないままであったが、私にできることは無い。
無理に別れさせる事などはもっての外だし、本人に「たまには自分の意見を主張することも大切だ」などの助言を送ったところで、焼け石に水というものだろう。
平安を祈りつつ、遠くから見守る。私にできるのはせいぜい、これくらいであろう。
「今年もお互い、何事も無く過ごせるといいな」
「そうだね。来年もまた、こうやって駄弁りながらお正月を楽しみたいな……」
「まだ一月一日だよ? 『来年の事を言えば鬼が笑う』って言うでしょ」
呆れたように笑う私に雛子は、すました顔で言った。
「でも、ほら。『一年の計は元旦にあり』って、ことわざもあるじゃん。私の今年の目標は、令和三年の元旦まで元気に暮らすこと!」
高校の頃から聡明で明るく、何が起こっても前向きに切り抜けられる。そんな雛子であればきっと大丈夫だろう。そう思えてならなかった。
「そういえば、私達も十一年目だね」
「十一年目って?」
「高一の春に部活で初めて会ってから、ことしで十一年目になるじゃん」
高校在学中、私は「天文研究会」に所属していた。活動内容はただ、南向きの部室で時間を潰すだけ。野外に星を観に行くことなど、一度も無かった。言ってしまえば、名ばかりの集団だ。
しかし先輩や後輩、同級生たちと取るに足らない雑談を繰り広げているだけで楽しかった。そんな環境で会ったのが雛子だったのだ。
「もうそんなに経つのね……なんか、時が流れるのはあっという間だな。雛子は今年で二十八歳になるよね?」
「やめてよ。少しずつ、おばさんに近づいてるって痛感しちゃうから」
「あはは」
実は、雛子は私よりも一歳上の同級生なのだ。彼女は中学を出てから一年ほどニート生活を送り、周回遅れで高校に進学したという、変わった経歴を持ってる。
そのため、初めて彼女を見たときは「ずいぶん大人びた子がいるものだな」と感じたものだ。
それまでの私の人生では出会うことが無かった、綺麗な女の子。長身と端正な顔立ちからは、肉感的な色気が漂っていた。
当時の私にしては珍しく、自ら積極的に話しかけた。雛子も快く応じてくれて、すぐに私達は意気投合。関係が親友に発展するのに、時間はかからなかった。
「あの頃、ほんとに毎日が楽しかったよね…」
高校時代の私と雛子はいつも、教えたり教わったりの関係だったと記憶している。雛子は私に、制服の着崩し方と上手なメイクの仕方を教える代わりに、私は勉強を教えた。
当時、部室で交わしていた雑談の内容は、性的なものが多かったように思える。さらに遡れば、私は十六歳から酒を飲むようになった。雛子が私に、
おぼえさせたものだ。年齢を偽って購入したワインを体内に入れた時、私には罪悪感がつきまとった。
成人するまで飲んではいけない、と公に定義されるものだからだ。初めて酒の苦味を知った日から、私は優等生の仮面を被った不良少女になった。
だが、後悔はしていない。雛子が逃げ上手だったおかげで、警察の世話になった事も無い。ついでに私自身、親の期待に応えるだけの真面目な「いい子ちゃん」から、どこかで抜け出したいと思っていた。
そのきっかけを雛子が、与えてくれたのだ。
彼女には、とても感謝している。恩を未だに、返し切れていないとも思っている。だからこそ、私はこれからずっと彼女の力であり続けたいと願った。
「雛子、今年もよろしくね」
「うん!」
食事を含めて楽しい時を過ごした私が雛子の家を出たのは、午後の陽も傾いてきた頃。外は、相変わらず寒空だ。
今年も良い年になりますように――。
そう祈りながら、私は実家への道を戻っていった。
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