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北で強い嵐が走った。
南風が吹く。─── 今年初めの南風が吹く。
風鳥。集落の人々はぼくらをそう呼んだ。風鳥、元は風捕りだ。
今年初めの南風を捕まえて、一年の吉兆を占うのだ。
「それが今年の【風鳴き】かい。綺麗な子だね」
隣の家のおばあがニコニコとぼくに声を掛けた。「ええ、ぼくの会心の作ですよ」
ぼくは【風鳴き】の滑らかな木枠を撫でた。その背丈はぼくの肩まである。
風鳴きの琴。
ぼくらはこの琴で風を捕まえる。12本の弦の間を風がすり抜けるときに震える弦の旋律で、風の姿を捉えるのだ。
その姿が左右対称であればあるほど、複雑で美しい模様を描いていれば今年一年は安泰であると言える。
ぼくらが捉えるその風は暖かく、季節の春を思い起こさせるので「春一番」と呼んでいた。
だが、実際はそんな陽気で呑気な風ではない。
ここまでの一年は決して良い道のりではなかった。
なにせ、昨年の風鳴きはあまりの共鳴に耐えられず弦が千切れ飛んでしまったのだ。
みんな一様に青い顔をして吹き飛んだ琴を見つめていたのが忘れられない。師匠はそのときの強風で煽られ転落し亡くなってしまった。
いつも良い風が吹くわけではないのだ。ぼくらはそのことをすっかり忘れていて、ちょうど一年前、目の前で強烈に見せつけられ思い出した。
「今年は綺麗な風だといいのだけれどね」
「つらいことにも終わりはありますよ」
困ったように笑うおばあの肩を慰めるように撫でた。細い肩だった。この体で厳しい年を越えてきたのだ。
ぼくらには未来が必要だった。
そうして、その未来を指し示す唯一の方法が、この風鳴きの琴なのだ。
美しい曲線を描く木枠は、この一年を掛けて削り出して磨いてきた。千切れ飛んだ弦は改良を重ね、響きを損なわずも強固に、どんな風でも姿を捉えられるようにしてきた。
みんなの一年を、未来を、ぼくと風鳴きが握っていたのだ。
***
用意された矢倉で、ぼくと風鳴きは春一番を待っていた。
転落しないようにと風鳴きはしっかりと土台に固定され、ぼくは命綱を腰に巻いて貰っていた。用意は万全だ。
そして。
それは波が引くときのように、背中を誰かも知らない透明で温度の無い掌でぐぐぅと押されるような感覚……
来る。来る。来る…… !
─── 呼吸さえも。
許されないくらいの突風だった。
傍らで風鳴きが悲鳴を上げている。轟轟と唸る風の向こうでぼくには風鳴きの声が聞こえていた。
絶えてくれ。圧し潰すように吹き付ける風から聞こえたような気がした。
耐えてくれ。風鳴き、どうか耐えてくれ。ぼくらに未来の道標を刻むために。
ああそうさ、この風を耐えたって、弾き出された軌跡が輝かしいものだとは限らない。
それでも。
そうして、ぼくは、…… 最後の最後の数秒に、これまで聞いたこともない美しい和音を聞いた。
凄まじい春一番を越えて振り返ったぼくの視線の先には、数本の弦をそよがせながらも鎮座する風鳴きの琴があった。
ぼくは手を伸ばし、風鳴きのしっとりとした木枠を撫でた。耐えてくれたのだ、ぼくらに未来を残してくれた。
風鳴きから繋がれた線の先で、円盤の上に置かれたペンが春一番の姿を描いていく。
そこに描かれたのは、凶暴たる円陣、混沌たる波動、つい数秒前に感じていた死の淵を思い出させるに相応しい荒れ狂った嵐であった。
ぼくは落胆よりも、そろそろと集まってきた集落の人々にこれをどう説明したらよいのか悩んでしまった。
の、だが。
最後に描かれた、その円陣の中心。
端正な数式を花に置き換えたような、美しい幾何学の模様……
それを視認したぼくは、自分の頬を伝う熱があることを遅まきながら知った。
指先で花の輪郭をなぞる。儚く消えてしまうかと思われた線は、しかし、確りとそこに灯っているように見えた。
「みんな、今年は」
ぼくは涙を拭ってみんなを振り返った。
きっと楽な日々では無いだろう、今年も。
だが、光は確かにその中にあるのだ。
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