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「さて。ではひとつ、試しに振るとしよう」
男は辺りを眺める。試し切りに良さそうなものを探しているのかと思えば──
「ふむ、富士の山にするか」
また突拍子もない事を言ったかと思えば、野原だというのに袴が汚れることも気にせず、悠然と胡座をかいた。
商人は慣れたもので、余計な口は挟まずに黙って眺めていた。
男は刀の柄へ手をかけることもせず、ただ座ったまま目を閉じる。
商人が固唾を飲む音さえ気に止めず、ただ静かに思いを馳せる。
揺れる木々の囁き。遠くで喋る鳥。
風に乗せて届く、乾いた空気。山を越え、川を越え──富士の山へと辿り着く。
「────ふっ」
男が右膝のみを立てた。その手には既に柄が握られており、その切っ先は富士の山へと向けられていた。
ひと呼吸を置いて──ピィン──と、空をはねる音。
静寂の中を、その音だけが響き渡った。
商人にはあまり学はない。だがそれでも、今目の前で行われた居合が人の域では辿り着けないものであるということは理解できた。
そしてそんな事ができる人物は、この世には恐らく二人とおらず、あの剣術家のみであると。
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