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ずるい。弱ったあの男の姿を見せつけて、田舎までの足跡を語って聞かせたりして。
「すみません。もっと病状が安定しているときにあなたを呼ぶべきでした。でも、江波さんは急激に体力が落ちているんです」
それは悪化の一途をたどるというサイン。看護師だった母から聞かされていた。だから事実だとわかる。父に残されている時間は長くない。
頭ではわかっている。
「最期にお父さんって呼んであげてください」
どうして――私は敬一郎さんの顔をまじまじと見た。
「ここに来てから江波さんのこと、ずっとあの人って呼んでるから。避けてるんですよね?」
落ち着き払った目が私を捉えている。
図星だ。離婚の原因を作った父が憎かった。十三歳の私は、父を親として認めないと心に誓ったのだ。だから絶対に「お父さん」とは呼びたくない。
私の気持ちを見透かされたようで悔しくなった。
「あなたも人のことが言えるの? 義理とはいえ息子なのにずっと江波さんって呼んでるじゃない!」
敬一郎さんの喉仏が上下した。
ずっと。この人も手紙の中では義父なんて書いていたけれど、他人行儀な呼び方をしてる。
「俺は……俺の名前は江波じゃなくて松本敬一郎です」
「どういうこと?」
手紙では江波姓を名乗っていたのに。
「おふくろが再婚したのは俺が二十歳になってからです。今更苗字を変えるのも嫌だったので俺は江波さんの籍には入らなかったんですよ」
「そう。でも後ろめたい気持ちがなければ最初から正直に話してくれたはずでしょう?」
こちらの気持ちが見抜かれたように、私も相手の真意が窺えた。
「江波の名前を使えば、私が関心を持つと思ったんでしょう?」
「そこまでは……」
否定する彼の額から汗が噴き出している。嘘の下手な人だ。
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