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霧が包む麦畑の隅に、あかりの姿が朧げに映る。彼女は手を挙げてからクラウチングスタートの姿勢を取り、そして駆け出した。同時に僕もスタートを切る。
静寂の朝、自分の足音と呼吸だけが聞こえてくる。
先走るな。リズムを崩すな。ペースを一定に。
自分に言い聞かせながら一歩一歩、確実に足を進めてゆく。
僕が先にゴールすれば、あかりは再び陸上を始め、握手喝采を浴びることになる。僕がすべきことは、あかりを陸上の舞台に連れ戻すことだ。
薄明りの麦畑の脇を、僕とあかりが走っている。赤茶けた土壌に、靴の跡が刻まれていく。
走りながら、それでも奇妙な勝負だと思えてならなかった。夢を押しつけあうような、いびつな目的の勝負だからだ。
もうすぐ折り返しとなる二つ目の角に差し掛かる。まだ余裕はあるだろう。
そう思い、僕はあかりとの距離を確かめるため、角の直前で初めて背後を振り返る。
そこで僕は目を見張った。
――まさか。
あれだけ遠かったあかりの姿が、ほんのすぐ近くまで迫っていたのだ。まっすぐに僕を見据え、無駄のない凛としたフォルムを保ったまま追随している。秩序立った呼吸をしていて、一縷の隙も見られなかった。
まるで肉食動物に標的にされた小動物の気分だ。それほどまでに、あかりは闘争心に満ちていた。
――どうしてなんだ。ここまで凄いのに、どうして陸上に戻ろうとしないんだ。
僕はなりふり構わず余力を振り絞り、足の回転を速めて加速する。
けれども、あかりもさらに速度を上げて、容赦なく僕との距離を詰めてくる。
――まずい、追いつかれる。
最後の角を曲がるとその先にゴールが見えた。果たして逃げ切れるだろうか。
けれど、僕の体力は300メートルを残して限界を迎えた。無酸素運動の極地で足は鉛のように重くなり、思うように動かなくなった。全身の細胞が悲鳴を上げている。
――あかりはこんな苦しいトレーニングを、毎日、何度もこなしていたのか。
そう思い、わずかに速度が落ちたとき――
あかりが疾風のごとく、僕の隣を抜き去っていった。
「……ッ!」
僕よりもあかりの方が、はるかに余力があった。
そうだ、あかりは僕ではなくて、怪我をする前の自分自身と勝負しているに違いなかった。そんな鬼気迫る空気を放っている。
僕はもともと、記録の目安でしかなかったのだろう。完膚なまでの敗北を覚悟した。
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