僕はまだ燃えるような朝焼けを知らない

6/10
前へ
/10ページ
次へ
霧が包む麦畑の隅に、あかりの姿が朧げに映る。彼女は手を挙げてからクラウチングスタートの姿勢を取り、そして駆け出した。同時に僕もスタートを切る。 静寂の朝、自分の足音と呼吸だけが聞こえてくる。 先走るな。リズムを崩すな。ペースを一定に。 自分に言い聞かせながら一歩一歩、確実に足を進めてゆく。 僕が先にゴールすれば、あかりは再び陸上を始め、握手喝采を浴びることになる。僕がすべきことは、あかりを陸上の舞台に連れ戻すことだ。 薄明りの麦畑の脇を、僕とあかりが走っている。赤茶けた土壌に、靴の跡が刻まれていく。 走りながら、それでも奇妙な勝負だと思えてならなかった。夢を押しつけあうような、いびつな目的の勝負だからだ。 もうすぐ折り返しとなる二つ目の角に差し掛かる。まだ余裕はあるだろう。 そう思い、僕はあかりとの距離を確かめるため、角の直前で初めて背後を振り返る。 そこで僕は目を見張った。 ――まさか。 あれだけ遠かったあかりの姿が、ほんのすぐ近くまで迫っていたのだ。まっすぐに僕を見据え、無駄のない凛としたフォルムを保ったまま追随している。秩序立った呼吸をしていて、一縷(いちる)の隙も見られなかった。 まるで肉食動物に標的にされた小動物の気分だ。それほどまでに、あかりは闘争心に満ちていた。 ――どうしてなんだ。ここまで凄いのに、どうして陸上に戻ろうとしないんだ。 僕はなりふり構わず余力を振り絞り、足の回転を速めて加速する。 けれども、あかりもさらに速度を上げて、容赦なく僕との距離を詰めてくる。 ――まずい、追いつかれる。 最後の角を曲がるとその先にゴールが見えた。果たして逃げ切れるだろうか。 けれど、僕の体力は300メートルを残して限界を迎えた。無酸素運動の極地で足は鉛のように重くなり、思うように動かなくなった。全身の細胞が悲鳴を上げている。 ――あかりはこんな苦しいトレーニングを、毎日、何度もこなしていたのか。 そう思い、わずかに速度が落ちたとき―― あかりが疾風のごとく、僕の隣を抜き去っていった。 「……ッ!」 僕よりもあかりの方が、はるかに余力があった。 そうだ、あかりは僕ではなくて、怪我をする前の自分自身と勝負しているに違いなかった。そんな鬼気迫る空気を放っている。 僕はもともと、記録の目安でしかなかったのだろう。完膚なまでの敗北を覚悟した。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

24人が本棚に入れています
本棚に追加