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一月、特に今週は今シーズン一番の寒波が上空に居座っているって、天気予報でいっていたけれど、市役所内は空調が整っていて、しかも今日は日差しだけはたっぷりだから、あんまり寒そうな感じがしない。
でも、前までだったら「あぁ、やっぱり寒いんだな」なんて思いながら外の、あの休憩所で温かいコーヒーを買って、飲んで、寒さに負けてそそくさと戻っていったっけ。
でも今は――。
「そうですね。学区としてはこちらの小学校になるのですが、登校距離でいえばこちらの小学校に入ることも可能です。必要な書類をお渡ししますので、少々お待ちください」
頭を下げて離席をしたところで、カウンターテーブルの別の窓口のところから声をかけられた。
女子高校生だった。二人組。茶色のチェック柄のスカートにリボン、俺が職業紹介に赴いた高校の生徒。
パッと顔を上げてそちらに振り向くと、小さく「キャー」なんて叫んでる。
「……ぁ」
あの、すみません。もしもお問あわせでしたら、番号札をお取りください。お問合せ等でないようでしたら――そう言って、遠回しにここにはそういったことで来ないでくださいと伝えようと思った。
「ありがとうございまーす。すみません。何か用事がありましたか?」
「あ、いえっあの」
けれど、間に入ってくれたのは正嗣だった。
彼女たちは正嗣の笑顔にポッと頬を赤らめながら、お仕事邪魔しちゃってごめんなさいってペコリと頭を下げてその場を離れた。
「あの、まさつ……」
咄嗟に名前を呼んでしまうところだったと、口をつぐむ。
「ヤキモチ妬く前に飛び込んじゃおう戦法です」
「……え?」
今の?
「そしたら、牽制もできて、貴方と話す機会も増えるでしょ?」
「……」
正嗣はにっこりと笑ってから、その場を離れ、すぐにデスクで書類の確認作業へと戻っていった。
一月は、昨年末に各家庭から保育所、学童などへの新規入所申込に、継続申込等が一斉に送られてきていて、それの書類の不備確認からまとめまで、いろいろやらないといけないことがあるから。だから。
「ふぅ」
だから休憩に入るとどっとその疲れを吐き出すように、溜め息が溢れてしまう。
「あらあらお疲れね」
「……橋本さん。お疲れ様です」
毎年のことだ。毎年一月は忙しくて。でも、今まではこの休憩時間に一人、建物裏手の日陰でコーヒーを飲むくらいしかなかったから、すぐに切り上げてた。寒くて、休んでられなくて。
「それにしても大人気ねぇ。アイドルみたい」
「あはは、今だけですよ」
そんなことはないわ、なんて橋本さんがにっこりと微笑んだ時だった。
「もうこれ、最高です! おすすめなんですよ! 絶対に読んでもらいたいです!」
「へぇ、そうなんだ」
正嗣と、正嗣の同期の女性職員の声がした。
そうだ。さっき電話応対とかで忙しそうにしてたっけ。そっか、今から休憩なのか。二人で同時に。
そうか……。
「……」
そっか。
―― ヤキモチ妬く前に飛び込んじゃおう戦法です。
「……ぁ」
―― そしたら、牽制もできて、貴方と話す機会も増えるでしょ?
「あ、あのっ」
わ。
二人がこっち見た。って、当たり前なんだけど。呼んだわけだし。
「……ぁ、こっち、空いてる……ぞ」
手を上げて、こっちこっちって手招いたんだ。
「わ! ありがとうございますぅ」
彼女は嬉しそうにぴょんと跳ねてからこっちへと駆け寄ってきた。橋本さんが笑顔で彼女におやつとして持ってきていた小分けになっているお煎餅を手渡すと、またもっと嬉しそうに感嘆の声をこぼす。そして橋下さんの隣へと腰を下ろした。
「さっき休憩取りそびれちゃって」
「まぁ、忙しそうだったものね」
「そーなんです。あ、そだ! 最上さん」
「は、ハイっ」
「さっき、樋野さんに貸したのでぜひ!」
「? ……え?」
「漫画! とっても好評だったって聞いて」
「……あ」
さっき、会話、そのことを話してたのか。読んでもらいたいって言ってた。
「おすすめを渡してあるので! ぜひ、読んでください!」
「ぁ、うん」
「んもー! まさか最上さんにウケるなんて思ってなくて、すっごい嬉しかったんですよぅ。あのっ、あのっ、また持ってきてもいいですか?」
「あ……」
一月は結構忙しいんだ。
問い合わせの電話もたくさん来るし。受付にやってくる相談者も多いし。
だから、忙しくて。
「ぜひ」
「やった! そしたら持ってきます」
夏ならまだしも一月の冷たい空気の中、建物裏手にある休憩所は寒くて仕方なかった。冷え切った風が吹き抜ける日陰。
「まぁ、漫画?」
「そうなんです! あ! 橋本さんも読みますか?」
「えぇ? いいわよ。もう老眼だし」
前は休憩時間なんてそんなに取らなかったんだ。コーヒーを飲んでおしまい。
「えぇ! でもすっごいいお話なんですよ! 猫がまた可愛くて」
「猫? それじゃあ読まないわけにはいかないわね」
「へぇ、猫好きなんですか?」
「あら、樋野くんに話してなかったかしら? もう大好き! ただの猫おばさん!」
一人でコーヒーだけ飲んで、溜め息すら凍りそうな休憩所から足早に自席に戻ってた。
「最上くんには話したわよね?」
「あ、えぇ……前にちょっとだけ」
「え? そうなの? なんか仲良し」
「そりゃそうよぅ。新人だった最上君の頃からだもの」
「!」
そこで正嗣がハッとしてる。
そうだ、それは……って。
「ちょ、橋本さん。新人の頃の俺なんて、本当に」
「本当に可愛かったわぁ」
「えぇ! 知りたい!」
「私も知りたい! クールビューティー最上さんの新人時代!」
「田代ちゃんも気になる?」
「なりますなります!」
「俺も気になる! クールビューティー!」
なんだ、その大昔の女子プロレスラーみたいなあだ名。クールっていうか無愛想なだけだし、ビューティーなところなんてかけらもないのに。
「じゃあ、仕方ない。とある歓迎会で撮った集合写真を持ってくるしかないわね」
「「やったー」」
「ちょっ、橋本さんっ」
休憩なんてコーヒー飲んでおしまい、だったんだ。
以前は。
「さ、そろそろ私たちは休憩おしまいね。最上くん」
「あ、はい」
「お先にね」
そこで席を立った。
彼女、田代さんは楽しそうに俺にも勧めてくれた漫画の話を正嗣にしていた。
正嗣は――。
「……」
こっちを見ながらにっこりと笑って、楽しそうに口を動かした。
――また後でね。
そう、口だけで言って手を振って。
一月。
外は寒そうだ。
きっと以前なら、この寒さに耐えきれず一分二分で終えていた休憩。
「さてお仕事ね」
「えぇ、頑張りましょう。いつもご馳走様です」
「ウフフ。みんなで休憩すると楽しいわね」
でも今は温かいコーヒーと橋本さんのお煎餅と。
「そうですね」
それから、今日は大人数になった休憩時間で、指先までポカポカだ。そうして温まった俺は。
「楽しいです」
カウンターへ戻ると。
「またお待たせしました。受付番号、三百五十二番でお待ちの方、いらっしゃいますか?」
少し元気な声で次の人を呼び、受付カウンターに立っていた。
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