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美しさと機能性
「言葉は使われないと忘れ去られ、使われ過ぎると軽くなる」
この日も、まず『思索家』がそう話し始めた。
「死語という単語があるが、多くの場合この言葉はその対象もまた単語を指すことが多い。しかし実際には消えていくのは単語ばかりではなく、言い回しや言葉遣いなどもある。例えば昔の映画を見たとすると、そこでの言葉だけでなく、話し方それ自体まで古臭いと感じることがあるだろう。感情の伝え方、表現の仕方から現在とは違う、と」
テーブルを囲んでいるのは他に、『良識家』、『看視者』、『双つ子』の姉妹。そして傍らに立つ『使用人』が一人。
「ただこれはその当時の人々がそういう話し方をしていたと理解するべきか、あるいは映画であればシーンの尺の問題や画質の問題によってそうせざるを得なかったと解釈するべきかというところもある。逆にそこから影響を受けて変化したという人もいたかもしれない。ともあれ時代の変化によって言葉だけでなくいつしか人々が忘れ去っていく振る舞いというものはある」
テーブルは他にもいくつかあるが、現在は他に人はいない。普段からそうではあるが、一人や二人くらいは誰かが別のテーブルにいることもある。しかしいたとしても互いに交流することは滅多にない。ここではこのように複数人が一時的にでも同じテーブルにつくのは珍しいことだった。
「一方で、多くの人が使う言葉や振る舞いは、その人数と回数が増えれば増えるほど本来の使い方や意味からずれていく傾向があるように思う。例えばもともと専門用語であったときにはいくつかの意味やニュアンスを含んでいたものが、一般語になるとわかりやすい一つの使い方や意味に受け取られて、さらにそこから派生して別のニュアンスが追加されてきたりということがある。結果、最初に使われていた意味とは異なる意味で流布されるという現象が起こる」
他の四人は興味深くというほどでもなく、しかしまったくの無関心というわけでもなく『思索家』の話を聞いている。
「すると本来の意味をもう一度という人や、以前の慣習を再びという人が現れてくる。そうなるとそれに反発する、変化が自然だと言う人も現れる。これは何度もいろんなところで繰り返されてきた流れであると言っていいだろう」
「はい」
そこで唐突に、『良識家』が片手を挙げた。
「・・・何だ?」
あまりに急だったためか一瞬反応が遅れたものの『思索家』が発言を促すと、『良識家』は悪戯っぽい笑みで言う。
「僕は『良識家』なんだから、ここは美しさに寄り添いたいね。それは大抵今よりは昔のほうがあったと思うんだ」
「なるほど」
「じゃあ、はい」
『良識家』の言葉に頷きかけた『思索家』の耳に、もう一つの声が割り込んできた。
同じようにして手を挙げたのは『看視者』。やはりその顔には含みのある笑みがあった。
「私は機能性だね。使われ続けた結果としてわかりやすい状態になったのなら、利便性の面から現代の言葉遣いのほうがいい。使いにくいものが消えていくのは不思議でも何でもないよ」
「ほう」
二人が立場を表明したことで『思索家』は自分の話をいったんやめ、残った姉妹に目を向けた。
「二人はどうだ?」
『双つ子』の姉妹は目を見合わせて、妹のほうが姉に向けて質問をした。
「お姉さまはどう思う?」
大抵は妹が強めに返して姉がそれを肯定するような会話の流れが多い二人なので、妹の対応は他の三人にとってやや珍しく、それだけに姉の答えには興味が引かれた。
姉は不敵な笑みで妹に応じる。
「私に相応しい言葉を使い、私に相応しい振る舞いをするのが美しいということでしょう? 私自身が美しいのだから、自然とそうなるものよ。それが古いのか新しいのかは私を見る方々の勝手な捉え方でしかないわ」
そして出てきた答えはその場の誰もが予想していなかったもので、それぞれ反応に一瞬の間を要した。
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