国とひと、神の在り方

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【城承語り】:天照の血  戦の片付けが終わればまた宴会。荘園の民とはそういうものだ。眉を顰めるハヤトとて、酒が嫌いなわけではない。むしろ「やってられるか」と叫びながら瓶をあけ飲み干すこともざらにある、そして悪質なことに下戸だった。呑めばすぐ怒る、いや、これも荘園の民ならばこそか。しかし見事に呂律が回っていないため何を言っているかは不明、加えて何に腹を立てているのかも分からないときて、むしろ無害――そんな酔い方をする男だった。それを自身でも理解しているからこそ、普段はきちんとセーブしているのだ。出来た側近で助かる。  天照。天から照らすそれの力を、この国において成人とされる十六のときにこの身へ降ろし、当主となった。  藤家は優秀な法術回路を持つがゆえ国を統一し、神降ろしと呼ばれる儀式にて天の力を宿し――自身が「天照と成る」ことで、雨季の寒さが厳しいこの自国に、陽を絶やすことなく灯し続けた。  なにより戦……反乱が起こると当主は最前線に立ち、絶対の強さを示し続ける義務がある。国の安泰のため、いくらの反乱も無駄と悟らせる――たとえ過程でいくらの(おの)が命を削ろうとて、(いと)わずに。そうしてより地位を盤石に、絶対にと、国の平和を保ってきた。  戦うこと、法術回路を活性化させるということ。天照として振るうその力はまさしく、ひとの寿命を「食らう」。神の力をひとが宿し、おこがましく身の内に抱え、挙げ句「絶対」のために遠慮ひとつせず行使するのだ。  神を降ろし、神と成り、神として力を使う。代償がないわけなど有り得ない、しかして神を使うことの代償こそが、命。それだけの話――妥当だろう、対価としては。  されども藤本家とその契約者以外の人間は、この事実を知らない。ゆえに神降ろしとは、厳かな祝いの日とされている。  天照、とはいつからか……太古の昔、藤家が国を統一するより前のように太陽そのものを神と崇める呼称では、なくなった。時代は移ろい単に天にあるそれを指すのみの言葉となったのである。  しかし雨季の長く気温も低い自国にとって未だ神聖視されるものであり、同時にその恩恵を絶やさぬためと、藤家当主にその力を宿し継いでいく文化が始まったのだ。国を照らし、温もりを根差すため。そうして現当主は現つ神(あきつかみ)と呼ばれ、国の灯火、民を守る絶対の強さを有した「天照そのもの」として、祀られる。  それこそが藤の役割。生まれながらの定めである。  ――天照宿し現つ神。もはや人ではない。人ならざるものは人の世に長居はできない。  前当主である父の天晴(あまはる)は未だ、辛うじて健在である。  天照は既にこの身にあり、けれど抜け殻となった父は決してひとと相成れたわけではない。人は神になれようと、神は人へ戻れはしない。削られた寿命も然り、弱った父は毎日布団に臥しており、契約者の法石であり妻でもある吾れの母――美都希(みつき)が付きっきりで面倒を見ている日々だ。  天照を剥がしても地位を失うわけではない。存命であるうちは上主(かみぬし)と呼ばれ、体力的にも現当主へ仕事を受け継いでいく、という意味でも政には関わらないが、国土の所有権を有しているのは父のままであり、誕生祭には祭好きな荘園の民が国中の市街にて大騒ぎをし、力のある一族のみならず民からすら様々な贈り物も届けられる。  当然毒を仕込める類いのものは受け付けられないためもっぱら花ばかりが届き、それに埋まるように囲まれる父は「まるで葬式みたぁじゃ」と大笑いしているのだが。  御所(ごしょ)と呼ばれる、藤の一族のみ立ち入れる――とりわけ、本家の住まい。  その廊下をひとり歩きながら、かの笑って言った声を、反芻しながら。す、と障子戸を引き、まさにその顔を見やる。 「天晴、調子ゃどうか」 「おぉ天雀(あまざく)か、座れ座れ。なに、今日は朝からラジオ体操してやったわ」 「いや大人しゅうしときゃれや……」 「ははは、 ついにお内んまで呆れられるたぁ。そろそろ迎えが来やらるんかの!」 「天晴、……まぁ、吾れも人んこと言えにゃあ」  父の布団のそばで背を伸ばし花を活けている母から、なんとも言えぬ威圧を感じる。この調子ではラジオ体操をしやがった、とは事実なのだろう。……馬鹿をするなと言いたくはなるが、同時にその感情も、察してしまう。  近いことが自分で分かっているのだ、恐らくは。ならばじっと横になり退屈と痛みに嘆くより、こうして笑って逝くほうが幸せというもの。  そしてそれを吾れと同じくらい理解してしまうのが、母だ。だから安静を願い怒れども、――雷を落とすことができなかった。荘園の女はしゃならしゃならと強かで、男より頭が切れるゆえに口ではまず勝てない、のに、天晴を言葉ではもう、咎められなかった。  覚悟を決めているんだろう。まこと、美都希には敵わない。日々痛感させられるばかりだ。 「天雀、回路はどうなっちゅう」 「今んときゃあなんも。二十一じゃあ、あと十五年あらぁに限界言わらりゃ堪らん」 「……ほんにのう」  天照を剥がすのは基本的には三十六。これは決まっていることだ。  成人の十六で当主となることの多い藤家長男は、体が弱り前線に立つことが厳しくなると一度天照と別れ、次の当主となる者に神降ろしをしなければならない――それを行えるだけの体力があるうちに、生きているうちに。その限界、とやらが、およそ神降ろしから二十年であろうとされている。統計だ、もちろん本人の体力次第で儀式が行えるなら三十六を超えても当主を続けることは可能だし、実際天晴を含め前例はあった。しかしそれよりも早くに衰弱したならば、その分早くに天照を継がせなければならない。  天晴はもう四十一である。吾れも早く子を成せと、時折美都希に言われていた。衰弱してしまう前に。  降ろすことができるのは天照の馴染んでいた体を持つ、ひとでないもの、だけだからだ。  ならば父はなんであろうか。ひとがゆえ死ぬのであろうに、果たして神だったものとして今もこうして崇められている。 「若、上主様のご体調はいかがでしたか」 「呆れっほど元気でにゃあのう。無茶の得意な男よ」 「よく言えますね、それを貴方が」  すぐ刺々しくなる声に大笑いして廊下を歩けば、眉間の皺は更に深まる。ビン、と一度強めに弾いてやった。 「短気ぁ損気じゃあ言うとろう、いつも」 「直すつもりはありますよ」 「あるようにゃ見えやらんわ。笑え笑え、吾れに見せられ」  特にそこを押さえるでもなく、ハヤトは顔をそらし俯く。果たしてなにを思っているのやら、それに大方の見当がついていしまうようになったのは、果たしていつからだったやら。  自分は、なにとして死んでゆきたいのだろうな。  ひとりからから笑いながら、ついてくる後ろめたげな気配をつれて廊下を歩いた。
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