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第2部・第11話 彼は友達
ディックは、物静かで控え目な性格で、決して強い言葉を発さなかったし、自分から積極的に先頭を切って何かをすることはなかった。しかし、よく周囲を見ていて、人の気持ちを察するのがうまかった。
フード・ドライブに参加し始めた当初、人見知りして一人で入って行けない訓志をコミュニティセンターの玄関まで迎えに来てくれたし、言葉が理解できない時の微妙な表情を見て取り、さり気なくフォローしてくれた。訓志が喋りたいのにうまく表現できない時も「サトシが言いたいのは、こういうこと?」と読み解いてくれた。ディックが他の人と話していたりで、訓志が困っていることに気付いてない時は、つい、助けを求めるような表情で彼を目で追ってしまう。
そんな二人を、フード・ドライブのボランティア達は、微笑ましく見守り、愛情をこめてからかった。
「殻を破って出て来たばかりのヒヨコが、刷り込みで、犬や猫にくっ付いて回ってるみたい」
「サトシを雛に喩えるのは失礼だよ。彼は、ちゃんと自分の世界を持っている大人だ。ただ、アメリカに来たばかりで、まだ英語に慣れていないだけだよ」
そんな風に、彼はやんわりと訓志を擁護してくれるのだった。
ディックが話していたように、困っている人に料理を作って手渡すという、心温まるボランティアに参加している人たちだから、みんな優しくて朗らかだ。訓志もじきに、一人で調理室に入って自分から顔馴染みのメンバーに話し掛け、歓談の輪にも入れるようになった。配達に行く時も、今では色々な人と組む。英語はそれほど上達してはいなかったが、会話には慣れてきた実感がある。
言葉やコミュニケーションの問題で彼の助けを必要とする場面は徐々に減っていたが、音楽や映画、料理を愛するアーティスティックな面を持つ訓志にとって、多くを語らずとも繊細な情緒を共有できるディックは、良き理解者だった。フード・ドライブの後、時間があれば、二人でコーヒーを飲みながらお気に入りの音楽や映画等について語り合うこともあった。
そんなある日、料理の配達で、久しぶりにディックと二人きりになった。
「よろしく、ディック」
「よろしく」
彼の表情は、どことなくぎこちない。
(僕、何か、彼に失礼なことしたかなぁ?)
内心首を傾げつつ、訓志は笑顔で提案した。
「今日は僕が車出そうか?」
「いや、良いよ。僕が出す。サトシは、ナビをお願い」
微笑む彼は、いつも通りに見える。彼の態度が変だと思ったのは、自分の考えすぎかもしれない。訓志は頷いて、彼の車の助手席に乗り込んだ。
料理の配達は、いつも通り順調に終わった。しかし、最後の配達先へ料理を渡したのに、彼は車を出そうとしない。何か思い詰めたような表情を浮かべている。
「ディック? これで今日の配達は終わりだよね?」
訓志が訝しげに彼の横顔を見つめると、彼は、ハッとした。
「お礼が随分遅くなったけど、クリスマスケーキ、すごく美味しかった。ありがとう、サトシ。ボランティアでも分かったけど、君、すごく料理上手だ。君のパートナーは幸せだね」
彼の口元には笑みが浮かんでいる。声や話し方も、いつも通り温厚で静かだ。しかし、その目元は、まるで違う表情を浮かべている。
切迫したような、自分をコントロールできなくて苛立っているような、苦しげで切なそうな表情。それが、どんな感情から来ているか、言語や文化を超えて訓志は気付いた。しかし、その会話を回避する言葉を発そうとした訓志より一瞬早く、ディックが口を開いた。
「……君には、愛し合っているパートナーがいるって、最初から知ってた。彼のために日本でのキャリアや生活を諦めるくらい、君は彼が好きだし、彼も君を片時も離したくないほどベタ惚れしてる。
君はすごく魅力的だ。パーティに来てた連中は、キュートな外見だけ見て騒いでたけど、君は単なるかわい子ちゃんじゃない。思慮深くて、繊細で、優しい人だよ。君のパートナーは、スマートでハンサムで、お似合いのカップルだ。オタクっぽくて内気な僕なんか、お呼びじゃないのは分かってる。
……でも、僕は君が好きだ、サトシ。友達としてじゃなく。君に恋してる」
恋心を打ち明ける彼の眼差しと口調は、真剣で熱っぽい。そして、思いのほか強い。パーティ会場や本屋で言葉を交わした時の恥ずかしそうな表情や、おずおずした小声とは違った。これまで、友達としか思っていなかった彼を、初めて男として意識した。もじもじと膝の上で落ち着かなげに自分の手を握りしめ、ひどく手が汗ばんでいることに気付いた。
「急に僕が告白したから、驚いた?」
そう聞かれ、おずおずと遠慮がちに頷くと、ディックは苦笑いした。
「だよね。君は『そういう対象』として全く僕を意識してないだろうなって、分かってた。だから本当は、言わずに友達のままでいようと思ってたんだ。……でも、今日久しぶりに二人きりになって、君の顔を見たら、言わずにいられなかった」
何とか笑顔を作ろうとしているが、細められた目は、切なさを訴えている。
ディックは、アメリカに来て初めて友達になってくれた恩人だ。拙い英語にも熱心に耳を傾け、訓志の心の声を汲み取ってくれた。彼の親切には、感謝してもしきれない。自分は、優しい彼に甘え過ぎてしまっただろうか。あるいは、彼の恋心を利用してしまったのだろうか。
驚き、
申し訳なさ、
後ろめたさ、
せっかくできた友人を失うかもしれない悲しさ。
様々な感情がごちゃ混ぜになり、訓志の胸を揺さぶる。考え込む間、俯いていたが、何か言わなければと顔を上げると、ディックと目線が合った。
その瞬間、訓志の顔に強く浮かんでいたのは、おそらく「申し訳なさ」だったのだろう。ディックは苦しげに眉をしかめて唇を噛んだ。
「サトシ。君が、僕のものにならないのは分かってる。
……でも、一度だけで良いから、キスしたい」
指先を訓志の耳元へ滑らせ、頬をゆるく撫でて包み込み、彼は助手席の訓志に覆い被さるように、ゆっくりと口付けた。柔らかくて、細やかな愛情が伝わってくるような優しいキスだった。
どうしても、彼の唇を拒むことはできなかった。こんなに真摯に気持ちを打ち明けてくれたのに、『一度だけで良い』とまで言われているのに、それすらダメだと言ったら、感受性の強いディックがどんなに傷付くか、容易に想像できたからだ。
抑え切れない恋の熱情も、口付けに溢れ出していた。やるせない、切ない恋心を訴えられ、訓志の胸も苦しくなる。それまで神妙に様子を窺い、地蔵のように固まっていたが、思わず訓志からもキスを返していた。
(ディックとは恋人同士にはなれない。ごめんね。でも、友達として、これまであなたがしてくれたことに感謝してるし、気持ちは受け取ったよ)
そんな訓志の感謝や親愛の情も伝わったようだ。唇を離すと、ディックは切なげな吐息を洩らし、自分の額を訓志のそれに押し当てた。
「あぁ……。想像してたよりずっと、君とのキスは素敵だ。キスしたら、諦められるんじゃないかと思ったけど、ますます好きになりそうだ……」
「ディック……」
「大丈夫。約束したから、もう二度とこんなことしないよ。サトシ、君はやっぱり優しい人だね」
青く大きな瞳を眼鏡の奥で潤ませ、彼は、訓志の顔に添えた手を下した。
その日、訓志は、自宅までの走り慣れた道を何度も間違えた。良い友人だと思っていたディックの眼差しや口付けを思い出し、胸がざわついていたが、そんな自分を認めたくなかった。
その日の夜、ようやくスマホを確認する心の余裕が戻った。ディックからメッセージが届いていた。
自分の恋心を一方的に押し付けてしまったことや、口付けてしまったことを申し訳なく思っている。でも、自分を惨めな気分にさせないよう、訓志が気を遣ってくれたことは強く伝わってきたし感謝している。これからも友達でいて欲しい、と。
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