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第2部・第12話 勇樹の困惑
「訓志。ちょっと良いかな」
ある日の夕食後、勇樹が微妙な表情でソファに掛け、彼のすぐ隣の席をぽんぽんと叩いている。
「なに?」
急に改まって何だろう。不思議に思いながら、訓志は彼の隣に腰かけた。小首を傾げて彼の顔を覗き込むと、彼は言いづらそうに何度か口ごもりながら、ようやく言葉を発した。
「あのさ……。ディックとキスした?」
訓志は驚いて、目と口を丸くして勇樹を見つめた。その反応を見るや、勇樹の表情が曇る。自分が勇樹以外の男性とキスしたと認めたこと、勇樹もそれを察したことに気付き、血の気が引くのを感じた。
「違うんだ。……いや、彼と一度だけキスしたのはホントだけど。そういうんじゃないんだ! 彼とは、ただの友達だよ」
勇樹は深い溜め息をついて瞼を閉じた。眉間に寄った皺を揉みほぐす指先は、怒りか動揺か、微妙に震えている。
「『そういうんじゃない』って……。だったら、なんで彼とキスしたの?」
「彼は、僕のことが好きだって。でも、僕には勇樹がいるから、恋人同士になれないのは分かってるって。だから、一度だけキスしたら諦めるって言われて……」
「何だよ、それ」
勇樹は苛立たしげに軽く鼻で笑った。
「好きだって言われたらキスさせるの? じゃあ、もし、一度だけセックスしたら諦めるって言われたら、訓志は彼と寝たの?」
誰とでも寝る尻軽だと言わんばかりのきつい皮肉を投げつけられ、訓志はカッとなった。憤りで頭に血がのぼり、こめかみがズキズキ脈打っているのが分かる。頭痛がするほどだ。
勇樹と付き合う前、お店を通して彼とデートした時に『普段はどれくらい客を取っているのか』と聞かれたこと。
勇樹の同僚・ジェイソンから、『お前目当てのゲイの客が呼べるだろうから、接客業して、せいぜいチップを稼いだらどうだ』と見下すように言われたこと。
かつて訓志が身体を売っていたのは事実だ。その過去は消せやしないし、訓志本人も良いことだとは思っていない。むしろ、屈辱感や、悲しみすらある。しかも、それほど昔の話ではない。忘れてなどいない。古傷なんかじゃない。薄くかさぶたができたばかりの、まだ生々しい傷だ。思い出すだけで、訓志は、胸から血が噴き出るような痛みを感じた。
「……ディックは良い人だし、僕にとっては、アメリカで初めてできた友達なんだ。僕の世界を広げてくれた恩人なんだよ?! 彼が、そんな浅ましい理由で僕に親切にしたとでも? 僕の友達は、そんな人じゃない!
……すごく繊細な人なのに、そこまで言わせて、僕がにべもなく拒絶したりなんかしたら、彼、傷付くじゃないか!」
訓志はぶるぶると握りしめた拳を震わせ、声を荒げた。自分自身のことより先に、恩人の名誉を守ろうと、ディックを庇う。しかし、そのことは、余計に勇樹の感情を逆撫でした。
「……そんなに、彼の気持ちが大事なの? じゃあ、俺の気持ちは、どうなんだよ。結婚して一年目で訓志に裏切られたのかって、絶望しそうになったよ……。
今日こうして俺が聞かなかったら、黙ってるつもりだったの?」
「裏切りって……。じゃあ僕も聞くけど、もし正直に『ディックとキスしたよ。でも一度っきりの約束だし、彼とは良い友達だから』って言ったら、勇樹は、言葉通り素直に聞いてくれた? ていうか、なんでキスしたこと勇樹が知ってるの?」
問い質された勇樹は、途端にバツ悪そうな表情を浮かべた。
「……ごめん。訓志のスマホを見ちゃった。いけないことだって分かってたけど、どうしても気になって。そのことは謝る」
ひゅっと、訓志は息を呑んだ。
「……勇樹、僕のこと疑ってたんだ」
「いや、疑ってたって言うか。最近、訓志、変だったからさ。ボーッとしてたり、妙によそよそしかったり」
勇樹は口ごもった。眼差しには怒りや苛立ちが残っているが、所在なげに目が泳いでいる。
思わず本音を漏らしたとしか思えない彼の慌てた態度が、訓志の胸を余計に抉った。精神的な苦痛に顔を歪め、ぎゅっとセーターの胸のあたりを握りしめた。
「僕に直接聞かないで、スマホを見るなんて……。よっぽど僕のこと信用してないんだね。僕が元出張ホストだから? さっき言ってたもんね。頼まれたら彼と寝たのか、って。そんなにチョロいと思ってた?」
訓志の口から出てきたのは、自虐の言葉だった。あまりに傷付いた時、人は、怒ることすらできなくなるのだろうか。
「いや、訓志が元ホストだから貞操観念緩いとか、そんな風に思ったことはないよ。……あの言い方は、本当に俺が悪かった。ごめん」
ディックとキスした事実を知った直後は、逆上して顔が赤かったが、パートナーである訓志に対してあまりな失言だったと気付き、今や勇樹は青ざめている。真剣な口調で謝った。
しかし、訓志は勇樹を一瞥もしない。無表情で静かな口調のまま、あたかも天気の話でもしているかのように淡々と話し続ける。
「ディックは、すごく紳士的だったよ。僕のこと、可愛いだけじゃなくて、思慮深くて、繊細な優しい人だって言ってくれた。キスした時も、僕の身体には、顔以外は触らなかった。いやらしい感じは全くなくて、純粋に恋愛感情からの、ロマンチックなキスだったよ。
……勇樹は、僕に近付く男の人は、みんな身体目当てだって思うの? 僕には、それぐらいしか取り柄がないから?」
他ならぬ勇樹に、人間性の全てを否定されたような悲しさで、もはや怒りすら通り過ぎている。ぎこちない笑みを顔に貼り付け、訓志は、ようやく勇樹を見た。目には、うっすら涙が浮かんでいる。
「……君には取り柄がないなんて、そんなこと思ってないよ。でも、そんな風に思わせたのは、俺のせいだ。訓志、ごめん。あんな言い方して、本当に悪かった。俺、嫉妬で、ちょっと頭がおかしくなってたんだ」
勇樹は、そっと訓志を抱き寄せようとした。しかし、訓志は、やんわりと身を引きながら勇樹の胸を押した。拒絶され、勇樹は信じられないとでも言いたげな表情を浮かべている。でも、今の気持ちのままでは勇樹に抱き締められたくなかったのだ。訓志は、自分の気持ちを訴え続ける。
「勇樹は、自分の同僚や友達との集まりに、僕を連れて行ってくれたよね。僕のことを、正式な配偶者だって紹介してくれて、すごく嬉しかったよ。勇樹の知り合いだから、みんなちゃんとした人だし、僕にも親切にしてくれた。
あ、ジェイソンは別だけどね。僕、彼のこと許してないから。
……とにかく、彼らにとっては、所詮、僕は勇樹のオマケでしかない。僕個人に興味がある人なんて誰もいない。英語も喋れないから、どこに行っても大した話ができるわけでもない。労働許可もまだ取れないから働けない。友達もいない。パーティに行っても、いやらしい目で見られるだけ。それか、モテることを理由に侮辱されるだけ。
僕、アメリカに来てから、家事以外にできることがなくて、家以外に居場所がなくて、すごく寂しかった。
ディックだけだったんだ。僕を一人の人間として気に掛けてくれたのは。
パーティに行っても誰も話し相手がいなくて、手持ち無沙汰で古本を見てたら、僕に話し掛けてくれてさ。英語の本なんか読めないから写真集を見てたんだけど、ミュージシャンの写真集だったから『音楽好きなの?』って。パーティの間も、重いからって本を預かっててくれた。終わったら取りに行くことになってたんだけど、あんなことがあって、すっかり忘れてた。でも、彼に名前と携帯教えてたから、わざわざ連絡くれて、スタンフォードのカフェまで持って来てくれたんだ。
『パーティ楽しかった?』って聞いてくれたけど、僕が返事に詰まったら、『自分も苦手だから気持ち分かるよ』って慰めてくれて。
英語が苦手だから何とかしたいけど、語学交換は勇樹が嫌がるって言ったら、『じゃあ一緒にボランティアに参加しよう。それなら一対一じゃないし、彼の同僚が僕のことを知ってるから、どんな人間か分かれば反対されないでしょ?』って気を遣ってくれたんだ。
お蔭で、色んな世代の人と話せるようになったよ。みんな、僕を個人として接してくれるし、料理なら僕も少しは役に立てるし。最初は、僕が人見知りしてたから、彼がコミュニティセンターの玄関まで迎えに来てくれてたんだよ。
……こんなに良くしてくれたのに、勇樹にまでディックを否定されたら、僕、どうすれば良いか分かんない」
話しながら、感情が昂り涙がこぼれた。こらえても収まらず、諦めて流れるに任せた。勇樹に対して失礼かもしれないという思いは一瞬脳裏をよぎったが、言葉を飾る余裕はなかった。訓志が嘘偽りない正直な気持ちを語っていることは、勇樹も感じ取ったようだ。時折、嗚咽で言葉に詰まったりもしたが、彼は一切口を挟まず、神妙な表情で、訓志の心の叫びに耳を傾けていた。
「訓志がアメリカに来てから、そんなに辛い思いをしてたなんて、知らなかった。ごめん」
勇樹はポツリと呟いた。訓志は手の甲で涙を拭いながら、かぶりを振った。
「……だけど、俺には話してくれなかったのに、彼にはそんなに色々話してたんだね。俺は理解できてなくて、彼だけが理解できてたことが、そんなにあったなんて。訓志と彼に、そこまで深い精神的な繋がりがあったなんて、知らなかった。彼とキスしたことより、そっちのほうがショックかもしれない。
『セックスさせろって言われたら、したのか』って言い方は、俺が悪かった。でも、あれはホントに、売り言葉に買い言葉なんだ。今の俺が言っても、信じてもらえないと思うけど……。俺の愚かしい嫉妬で君を傷付けて、自分が情けないよ」
彼は、訓志の涙を拭おうと一瞬手を差し伸べかけたが、嫌がられるだろうと思ったのか、すぐに手をおろした。
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