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前編
男がふらつきながら歩いている。
男の身体には、所々に刀傷があり鎧には何本もの矢が刺さっていた。
血が流れて雪で白くなっていた地面を、点々と赤く染めている。
そこかしこに受けた血は、自分の血か。それとも切り結んだ相手の血か。もう分からなくなっている。
相手の顔なんかいちいち覚えているものか。もう、どうでも良い事だ。
「俺は……、どこまで来たのだろうか……」
男は一人歩いていた。
その姿は侍であろうとわかる。
でも付けている鎧も直垂もボロボロだった。鎧も、受けた矢や刀傷で防御の体を成していない。
兜は何処に置いてきてしまっただろうか。
もういいか。俺はもう長くない。
彼は落ち武者だった。
男は、幕府の命で安房国から、蝦夷代官の元に仕えていた。それが仕えてから数日もしないうちに夜襲に合ってしまったのだ。
暗い中で急ぎ鎧を付けたものの、酒盛りの余韻が残るなか、炎上した館を逃げるので精一杯だった。
蝦夷か、津軽の土豪か……。また戦が起こる口実になるだろう。
そうなれば、得宗のヤツらのやりたい放題だ。まあ、俺には関係の無い事だ。幕府に関わるのが間違いだったのだ。あとは、息子達がどうにでもする事であろうなあ──────。
そうではない!
俺が、何故にこんな羽目に遭わねばならないのか。
何故にこんな夜襲に俺が遭わないとならないのか。
何故にこんな果ての地で……。無念の気持ちがよぎる。
男が歩く先に海が見えた。
冬の海。
見えてきた海は天気が荒れていて、舟なんか出せるようなものではない。
むしろ、遠くに見える岬は切り立った崖になっており、降りないと海に出られそうも無かった。
男は、死に場所を求めていた。
今更、館の方に戻っても奴らによって殺されてしまうがオチだ。太刀は刃こぼれして使えそうもない。だったら短刀があるから自分で好きな場所で、と思っていた。
ふと見ると、一匹の獣が岬に向かって歩いていた。
痩せこけた狼。所々傷を負ってふらつきながら歩いていた。
疲れた表情。老いた体躯 。
こやつも縄張りや餌を求めて、狼や他の動物と争ったのだろうか。
死に場所を求めているのか?
男は腹が減っていた。
だったらこの老いた狼を捕まえて食べてみようか。
懐に隠していた短刀を取り出そうとして……辞めた。
これから死ぬものが、生きるために食べるだと? 滑稽ではないか!
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