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後編
男は狼の後を、岬に出る一本道を伝ってふらつきながら歩いていた。
狼が男の方を振り向いた。
疲れている獣の顔は、男を見つめていた。瞳が一瞬鈍く光る。
でも、少しの間が流れたのち、男の方を気にせず前を向いて、ひたすら歩くようになった。
貴様になど興味などない。
男は、狼がなんとなくそう答えたような気がした。
「おぬし、この俺を馬鹿にしているのか? 畜生の分際で」
懐の短刀を取り出し、狼に向かって振ろうとした。
でも出来なかった。
大きくふらついてしまい倒れてしまったからだ。それでも短刀は手放そうとはしなかった。雪と土が顔を汚す。
太刀が使えない以上、短刀を捨てるわけにいくものか。
これは俺にとって残された命そのものだ。
男は一瞬、前方から視線を感じた。
見ると、先ほどの狼がまたも男の方を見ていたのだ。
「なんだこいつ……? 俺の方を何回も見おって」
狼はまた前を向いて、岬の方に向かって歩き出した。
ついてこい、と言ってるのか?
訳が分からないまま、男は狼に付いて岬に向かって歩いて行った。
岬に降る雪が更に強くなった。
でも、狼も男もその足を止めようとしなかった。
やがて、岬の端に出た。
狼はまたも、男の方を向いた。気になっていた男は狼に問う。
「お前、何を見せたいのだ? 」
狼は、男の問いに答えるかのように、前を向いて────、
うおおおおぉぉぉぅぅぅ……っ!
うおおおおぉぉぉぅぅぅ……っ!
海に向かって遠吠えを上げた。
「お前、泣いているのか? 」
男は思わず狼に問うた。
それは、この私に向かって泣いたのです。そうであろう?
突如、男の頭の中に声が響いた。聞いた事がある声。
狼にも声が聞こえたようだった。遠吠えを止めていた。
「誰だ⁉ 」
男は、反射的に身構える。でも声の主が分かった途端……。
一瞬、構えが緩んだ。
「お前、どうしてここに? 死んだのではなかったか? 」
男がいる岬の向かい、海面にそそり立つ巨大な岩に立つ人影。
白い小袖を着た女性の姿だった。
男と対になるような姿で、幸せそうな笑みを見せた。
あなた、お久しぶりです。お会いしたかった……!
俺もだ……会いたかった。
男は、そのまま岬から空に足を踏み出した。
踏み出したその先に、男を待っていたものは────虚無。
懐から取り出した短刀が煌めく。
頸動脈に刃を当てる。冷たい感触。
落下する感覚に、下から来る風に煽られた。
男の風が一瞬無重力の状態に陥り、短刀を持つ手に力が入って…………
スッと首筋に、男は刃を引いた。
うおおおおぉぉぉぅぅぅ……っ!
うおおおおぉぉぉぅぅぅ……っ!
再び狼は、雪が降る中で、張り裂けそうな遠吠えを上げていた。
泣き叫びのような、叫び。
目の前に立つ岩には、もう誰もいなかった。
それでも、狼は海の向こうに向かって、遠吠えを上げ続ける。
また一人、お前の方に、逝ったぞ。
何故に俺には、迎えを寄越してはくれぬのか。
生きる意味無き俺を、いつまで生かすのであろうか。
お前の元に、添い遂げたいのに────。
俺に迎えを、下され────。
狼は海に向かって、叫んでいた。
悲しき叫び。
まるで、目の前に恋人がいるかのようだった。
応えの無い、叫びであった。
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