【プロローグ】-1

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【プロローグ】-1

[お名前]  長倉乃々 [フリガナ]    ナガクラノノ  生年月日  (空白)年4月12日  職業   フリーター  書類に記入を終えると私はにんまりした。  長倉――この姓とももうすぐお別れか……。ほんのちょっとさみしい気もするけど、やっぱうれしい! 私も人妻になるんだなぁ〜ってじんわり喜びを噛み締める。この歳で彼氏もいなくて、たいした資格もなければなんの取り柄もない。そんなんだから結婚なんて一生できないんじゃないかと思ってたけど、もうすぐできるのね、私も…… 「ありがとうございました」  店員さんが記入した紙を受け取り、私はハニカミながらリサイクルショップを後にした。  明るさがまだ空に残る夕暮れ時、買い物から帰宅した。 御歳34歳にして未婚の私は実家に住んでいる。二階に上がり自室のベッドにどかっと腰を下ろすと、さっそくケータイを取り出してメールを打つ。送信先は――うふふ……“未来の旦那さんっ”。うふふ、うふふ、うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ〜〜……! 笑いが止まらない。  彼は年上の会社員で、平日の今日は5時30分まで仕事。終わったらメールか電話がかかってくるのでワクワクしていた。やっぱ会社員て良い。フリーターと違って安定してるし。今まで付き合ってきた男とは全然違う。元カレはみんなフリーターでなんだか頼りなかった。実家を出て一人暮らしはしてるけど無駄遣いばっかして家賃を滞納してアパート追い出されたり、バイト先でもめごと起こして仕事やめるって言い出したり、ガキっぽい奴ばっかだった。その点今の彼はぐ〜んとオ・ト・ナっ! 包容力があって私をいつもやさしく包み込んでくれる。結婚するなら絶っっ対こういう人ッ!  まぁ、最初はちょっと悩んだりしたけどね。だって自分より15歳も年上なんだもん。でももうそんなこと気にしている場合じゃなかった。私みたいにフリーターで、この先不安なアラサー女じゃ……  30代ともなれば同級生はだいたい皆結婚している。早い子は高校生になる子供がいたりするぐらいだ。親友はまだしてないけど、もう10年以上も付き合ってる彼氏がいる。その彼とは同棲していて、事実婚状態だ。私も結婚しなくていいからそういう人が欲しい〜! でも合コンも行かない、仕事は出会いが期待できない工場系しかしない私が“彼”に出逢えたのはまさに奇跡と言えた。“出逢い”はすぐ傍にあったのね? むふふ……。“運命の人”はずっと前からそこに居たのね? お祭りで、図書館で、TUDAYAで――いろんな出逢いを期待してたけど結局どれも当てはまらなかった。“運命”は音も立てずに私に忍び寄り、いつのまにか傍にいた。  高校を卒業してから短期や派遣のバイトをしていた私は、電車に乗ることが多かった。バイト先はだいたい同じ路線で行ける場所で、乗る時間帯もほぼ一緒。そうすると乗ってくる人も同じだったりする。あ、またあの人乗ってきたなとか、立ち位置とかまで覚えてきて会話をしなくても知り合いみたいな感じがしてくる。彼もその中の一人だった。毎朝同じ車両にスーツ姿で乗ってくる、どこにでもいそうなごく平凡なサラリーマン。中肉中背で眼鏡をかけていて、それ以外特徴が見当たらない普通の人。二駅前から乗っている私は座席に座り、名前も知らない者同士もちろん会話を交わすことはない。この条件で私達が接近し、そこから恋愛関係に発展する――そんなことが起こりうるだろうか? 想像もつかないだろう。  きっかけは、ほんの小さな出来事だった。 「お姉さん!」  電車を降りて改札口に向かう途中、後ろからそう聞こえた。なんとなく振り向くと「これ忘れてるよ」と傘を差し出された。 「あ」と私は口を開ける。来る時今日は午後から雨が降ると天気予報で言っていたので、持ってきていたことを忘れていた。座った時座席の脇に引っ掛けてそのまま置いてきてしまったらしい。恥ずかしい。 「すみません、ありがとうございます」  申し訳なさそうに私が言うと 「いいえ」  彼はさっぱりとした口調でそう言い、颯爽とした足取りで改札口から出て行った。   『いいえ』  その言葉が妙に印象的で、しばらく耳に残っていたのを覚えている。  翌日も同じ車両で彼を見かけた。前日のことがあったので私は「どうも」という感じで会釈した。すると彼は少し驚いたように軽く目を丸め、それから会釈を返してくれた。優しいおじさん……そんな印象だった。それから仕事場が変わってその駅へ行かなくなると、そんな出来事も記憶の中から薄れていった。  再び私がその駅に行ったのはそれから一年半近くも経ってからのことだった。私は地図が書かれた広告を手に、自動改札を出て駅に降り立った。次の職場は同じ市の別の会社の工場だった。地図には駅から歩いて5分と書いてあったが、方向音痴の私はまず目印の銀行を探して立ち止まる。辺りをキョロキョロ見渡すがそれらしき建物は見当たらない。どうしよう……。少し歩いてしまったので駅に戻って駅員さんに聞くのもしんどい。田舎なのでコンビニも駅の方まで行かないとなかった。9時前に開いている店もなく、途方に暮れていると――  あっ!? あの人に聞いてみよう。駅のほうからこちらに向かって歩いてくるスーツ姿の男性を発見した。 「すいません〜」とすかさず私は駆け寄った。 「ここに行きたいんですけど、場所わかりますか?」と地図を見せるとそのサラリーマン風のその男性は「それなら途中まで方向が同じなので」と言って案内してくれることになった。 「ありがとうございます」  よかった……。私はほっと一安心して胸を撫で下ろした。  やがて工場の先端が見えてくると男性は立ち止まり「ここからは一人で大丈夫かな?」と優しく気遣うように言った。 「はい、大丈夫だと思います」  私は頭を下げて心からお礼を言う。 「本当にありがとうございました」  すると男性は短く 「いいえ」  そう言って私とは違う方向に向かって歩いて行った。 「……」  その姿を見ながら私は茫然とし――   『いいえ』  ふと思い出して、胸がざわめいた。   あの人……  それからバイトがある日は当然のように電車で彼と一緒になった。通勤時間も下車してから向かう方向も途中までは一緒だから、どうしても道で見かけてしまう。そうすると黙っているのも何だか気まずくなって、どちらとなく軽い会話を持ち掛けた。天気のこととか他愛もない話。最初は緊張してたけどそのうち自然に話せるようになり――  落ち着くなぁ。  その時間が心地好いと思えるようになっていった。
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