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【プロローグ】-4
別の日、15分ぐらい残業して帰ると駅でまた彼に会った。ベンチが空いてなかったので立ったまま話す。
「これ、あったかくてすごく気に入ってます。ありがとうございました」
やっとマフラーのお礼がちゃんと言えた、と私はほっとした。
「よかった。若い子の好みがよくわからなかったんだけど、気に入ってくれて」
彼もほっとしたようだった。
「あの、でもなんで私に……」
思いきって尋ねると
「なんでかな」
彼は視線を外してはぐらかした。なんか、ずるい……
そうだ、聞いちゃえ!
「あの」
「え?」
「お名前聞いても良いですか?」
「うん、いいけど」
やった。私はなんだかワクワクした。
「桜庭だよ」
「桜庭さん」
私は胸に浸透させるように言葉をなぞる。名前を聞くまでずいぶん時間がかかってしまったけど、これで一歩彼に近付けた気がした。これからは彼のこと、名前で呼べる。それがうれしかった。
「私は長倉です」
私はすぐに続けた。
「ずっと気になってたんです」
「?」
「名前はなんていうのかなぁって」
「ああ、そうだったんだ」と彼は苦笑した。
「いつも親切にしてくださるので……」
「はは、そんなこと」と今度は照れ笑いした。
「あの」
その声に耳をつんざくような電車のブレーキ音が重なった。続く言葉もその音に掻き消される。――もし良かったら、が。
聞きたいな、メアド。そう思いながら電車に乗った。
一駅目に電車が停車すると扉側に座っていた人が席を立ち、一つ席が空いた。彼と並んで吊り革に掴まっていた私は「どうぞ」と彼に促した。
「いいよ、僕は次の次で降りるから」
そう言われ「じゃあ、すいません」と私は遠慮勝ちに席に座った。
『僕』って言うんだ。ふふ……
そう思って、私はついにやけてしまった。
「?」
彼が不思議そうにこっちを見る。
やばっ! 今にやけた顔見られちゃったかも!? 私は恥ずかしくなって俯いた。
それから会話もせず電車の揺れに身を任せる。不思議な感じだった。足元に見える黒い革靴。顔を上げればそこには
“彼”がいる――という現実。
「次で降りるから」
言って彼は網棚から荷物を下ろした。「暗いから、帰り気を付つけて」と告げて扉の方へ向かう。
やがて電車が次の駅に到着してブレーキをかけると、扉の側に立っていた彼は振り向き、私に向かって軽く会釈した。
「……」
小さく笑って私も会釈を返す。
『また明日』
電車から降りていく彼の背中に、心の中でそう告げた。
翌朝も彼からもらったマフラーをしてルンルン気分で私は家を出た。『桜庭さん』に会えるかな?
『なんでかな』って、あれどういう意味だったんだろ……うふっ。思い浮かべてにやけた口元を手で隠す。そしてまた電車の座席から、彼が乗って来るのを待った。あ、桜庭さん! 乗ってきた彼を見ると喜びで笑みが零れる。そして互いの視線が重なると途端恥ずかしさが込み上げてきて、私ははにかんで会釈した。彼も。
「おはようございます」
彼より後から電車を降りた私は、改札口に向かう彼に後ろから声をかけた。そのまま自動改札を通って一緒に駅を出る。こうして駅から並んで歩いたことはなかった。ちょっと照れながら同じ道を進んでいく。
「桜庭さん、帰りはいつもあの時間なんですか?」
さっそく彼の名前を呼んでみる。実は前日教えてもらってから、ずっと呼んでみたかった。
「うん、だいたいあの時間帯かな」
「そうなんですか」
ちょっと遅めに職場を出れば会えるってことだね。そっかそっかと私は一人納得して頷く。よし、次の質問。
「休みの日は、いつも何してらっしゃるんですか?」
「だいたい家にいるかな」
「へぇ〜、じゃあ趣味とかってあります?」
「う〜ん、得にないけど。あえて言うなら、スキーは好きかな」
「……」
「……」
「ふふっ!」
目と目を合わせて沈黙した後、私はおかしくなって吹き出した。彼は決まり悪そうな顔で「洒落じゃないけど」とぼそっと呟いた。なんかカワイイ。そう思ってしまった。
「土日はお休みなんですか?」
「うん」
彼は続けて言った。
「君は?」
「あ、私もです」
初めて自分のことを質問されて私は少し驚いた。
「あ、あの……」
もうすぐ別れ道になるところまで来てしまい、逸る気持ちが込み上げる。
「明日はどこか出かけるんですか?」
明日は土曜日。期待と緊張で胸が早鐘を打つ。
「明日は家にいるよ」
「家、ですか……?」
「うん」
何で? と伺うように彼がこっちを見る。既に別れ道の前まで来ていた私たちは、道端に立ち止まっていた。
「……」
どうしよう〜心臓がバクバク。私が次の言葉を言い出せないでいると……
「どこか行きたい所ある?」
彼が優しい表情で聞いてきた。
「え?」
「よかったら、明日連れていってあげようか」
これってもしかして……
そう、これがデートのお誘いで、その後私たちが交際するきっかけになった。
男運がなくて、結婚も恋も諦めていた私。 焦らないと自分に言い聞かせ
――本当は焦ってた。
24歳の時付き合ってた彼氏と別れてから、それを最後に誰とも付き合わなくなった。そして気が付けばアラサー。冴えない人生だった。しか〜し!
今となってはそれでよかったと思っている。
“男は漁るべからず。黙って待つべし”
その教訓は間違っていなかった。こうして私にもちゃんと運命の出逢いが訪れたんだから。黙って待ち続けた甲斐があった。
運命の神様
私と彼を巡り合わせてくれてありがとうございます。
私、絶っっ対幸せになります――――!
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【あとがき】
一話以降では【選択肢】と【いくつかの展開】を用意しました。選んだ選択肢がどう展開するのか、恋の行方をお楽しみください。
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