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「やめてよ碧ちゃん」
「べつに、笑わせようとか思ってません」
傍から見たらすごくおかしな会話かもしれないが、私と透さんの間には間違いなく成り立つ、正当なやり取りだ。
「本当は、手放すのが惜しい」
「面白いから?」
「可愛くて」
「ならまだいいじゃない」
「けどこれ以上一緒に過ごしたら、あなたに言いたくなるから。結婚しましょうって」
「それは、困る」
「うん、わかってます」
賢くて穏やかで、けして無理は言わない。
この先も私の気持ちが変わらないことを、ちゃんと理解してくれている。
私は常にそういう男性を求めてしまう。
相手は自分で選ぶ。好かれても困る。
条件はいくつかあって、ぬるま湯のような私のことを適度に受け入れてくれる人、私に本気にならない人、熱くならない人、間違ってもストーカー気質の人には近づかない。
「ごめんね碧ちゃん」
「ううん、謝らないで。こちらこそごめんだよ」
最初から、その約束だったでしょう?
どちらかが止めたくなったらやめ時だって。
透さんはいろんな意味で絶妙な人だった。
でもそうと決まれば取るべき行動は一つ。
別れ話をした相手と、このままだらだら居続けるほど野暮ではない。
着てきたものをゆっくりと身に纏うのを、透さんは黙って見ていた。
元気でねと握手して、先にホテルを出る。
残念だけど、さよならだ。
□
まだ六時台、早朝の外気は少し肌寒い。
朝夕と日中の気温の寒暖差がある季節で、透さんと出会ったのも、去年のこのくらいの時期だったことを思い出した。
結婚したいかあ……するよなそりゃ、いい人がいれば。もしかしてすでに、気になるお相手がいるのかもしれないし。
アラフォーで優しくて包容力があって、多分経済力も社会的地位もそれなりにある人。うーん……引く手数多だわ。
一年前と、気持ちが変わったのだろう。
羨ましい。
私はまだ、同じ場所をうろうろしているというのに。
ひと晩を共にした相手からの別れの言葉、フラれたことに他ならないのだが、私からは一ミリも涙は出ない。ただ残念だなって思うだけ。置いて行かれたような焦燥に駆られるだけ。
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